私の娘は重度の先天性疾患である。10年前は特別支援学校に通えて、色んな思い出を残した。授業参観だったり、修学旅行だったり。病院と家しか知らない娘が初めて遊園地に足を入れた時の彼女のあの目の輝きを忘れない。私自身、娘の病気を知ってからそういった「普通」なんて味わうことはないと思っていたから本当に幸せだった。そんな彼女ももう22歳。普通なら就職をしている時期である。未だ世間一般的な22歳と比べている時点で、私自身まだ昔封印したと思っていた感情を捨てきれていないのが丸見えであると考えると罪悪感と自分の惨めさに押しつぶされそうになる。思えばこの10年、色んなことがあった。娘は病気の状態が悪くなって学校どころか身体的な成長が止まり、気管切開をしているから声すらもうまともに聞いてない。チューブと空気の擦れる音が彼女の発する唯一の「声」だ。成長を止める薬剤だとか痛みを止める薬剤とか何を言われているのかわからぬまま病院の先生のいう通りに娘を見守りことしかできない。治療の作用で娘が3歳の時くらいの大きさになってはや5年ほど経つが、未だ娘にとって何が正解なのかわからない。この10年の間で旦那と別れた。治る気配のない重度障害の娘、病んでいる嫁。一日中働いて帰るとこれで、自分の稼ぎをこいつらに吸い取られる感覚。せっかくの休日も病院巡り。旦那も生きている心地がしなかったのだろう。この話を切り出されたときになんの文句も言えなかった。「今までありがとう」という言葉を掠り声で捻り出した記憶が蘇る。お互いつきあていた時の幸せな記憶、結婚ほやほやの記憶、そして当時があるからこそ辛いものがある。そんな彼の時々の面会と養育費の徹底は彼の罪滅ぼしなんだろうか。離婚してから、普通のマンションから県営の安いアパートに引っ越しをせざるを得なかった。私は基本娘につきっきりだし、病院、リハビリ、ヘルパーさん。生きているだけで相当な出費がかかる。障害者手当があるとはいえ厳しいものがある。値段はだいぶ抑えることができたが、神様のいたずらか、小学校に近い。部屋の狭い窓から聞こえる授業のチャイムが私たちを馬鹿にするかのように鳴り響く。少し娘に元気が戻ったと思ったら鳴り響くあの音に現実に呼び戻される感覚。私が毎日送り迎えするはずだった学校。運動会、体験学習。娘から少し目線を逸らしてみると目を輝かせた小学生たちが走り回っている。彼らは私たちのことなど梅雨知らず彼等の人生を歩むんだろう。酸素供給器、血圧測定器、胃ろう。さまざまな種類の「鎖」に繋がれた彼女を知ることもなく。白鳥のようだと思った。自由で、不秩序で、美しい。何を考えているんだろう、今日は先生が来るじゃないかと訪問診療の先生が来る前に顔を洗おうと洗面所に行くと10年前の楽しい記憶を記したポスターと目が合う。あれから10年。入浴ですら死に至る可能性があるという人生の中で何を思っているのだろう。チューブの掠れた空気の音では分からなかった。








この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?