好き嫌いの先にあるもの
物事は好き嫌いで判断して進めることって大事ですよねと散々お伝えしてきましたが、そんなことないよ〜という声も当然いただきます。
例えば・・・
好き嫌いで仕事ができればいいけれど、やらなきゃいけない仕事は嫌でもやらないとお給料がもらえない。
嫌いな上司であっても仕事上は我慢しないとエライ目に遭う。。。
好きなことだけやれるわけがない。
やりたい仕事をやっているわけじゃないし。
好きなことで食べていけている人なんか一握り。
社畜です。。。
などなど。。。
私もここに上がったことと同じことをよく考えていました。
論語で孔子も言っています。
「適(てき)もなく、莫(ばく)もなし」
つまり、
「好き嫌いで判断しない」
と説いているわけです。
文としてはもう少しあります。
「子曰く 君子の天下に於けるや 適もなく、莫もなく、義と之與(とも)に比す」
(君子たるものが世の中を治めるときは、何が好きで何が嫌いかということにこだわってはいけない)
君子ですから、公人として国の政を行う上ではそりゃ好き嫌いで仕事されたら今のご時世ではたまったもんじゃないわけです。
とはいえ、一個人の仕事まで果たしてこれが通づるのかな?と思うと実際の所、我々一般人は
他の選択肢がないからやらざるを得ない
という意味での好き嫌いが大半です。
ですから、君子の好き嫌いとはかなり異なるわけです。
とはいえ、全く違うわけではなく、君子であっても好き嫌いで仕事を選んでいいわけではありません。
<ビジネスパーソン>
お客様からクレームが出た→クレーム対応嫌い→放置→叱られる
<君子>
国民からのクレームが出た→クレーム対応嫌い→放置→叩かれる
いずれにせよ、嫌いだからといって放置するのはダメなわけです。
結局仕事に「嫌い」が出てしまうのは、なぜ嫌いなのかをよく考えていないからです。
「好き」についてはすぐにその解が出てきます。
そしてそのまま好きなことを実行していきます。
ところが「嫌い」はすぐに解が出てきてもその後にもう一つ、しなければならないことがあるのです。
それは、
「嫌い」→「理由」→「好きになるには?」
この「好きになるには?」を考える必要があるわけです。
どうやったら好きになれるのか?
何をすれば好きになれるのか?
何かを取り除けば好きになれるのか?
何かを足せば好きになれるのか?
というように、様々な観点から「嫌い」を「好き」に変えるアクションが必要になるのです。
「そんなこと言っても、嫌いなものを無理やり好きになる必要もないじゃないか!!」
というご意見も出てきますが、まさにその通りで無理やりにはする必要はありません。
そのときは何かを手放せば無理やりは無くなります。
仕事を手放す
時間を手放す
自分を手放す
手放すことは簡単です。
手放した後、何をするかがここでも重要になってきます。
でも手放すことなんか簡単にできるわけないじゃん!!
ですよね。そこで、もう少し考えてみましょう。
好き嫌いにこだわらず
成すべきことを成すことで
好き嫌いとは違う次元で
大きな達成感が得られるのです。
大学生の頃、セブンイレブンの玉子弁当が大好きで毎日食べていました。
毎日食べても飽きませんでしたがある時、玉子弁当が販売終了に。
もちろん、唐揚げ弁当に鞍替えをしましたがこんな些細なことは好き嫌いにこだわらずにすんなりとスイッチできるものです。
さらに、好き嫌いとはまた少し違った捉え方をしてみます。
それが
「心地よいか、よくないか」
で捉えることです。
一般的には、好きであれば心地よい。嫌いだと心地よくないことが大半です。
でも好きだけど心地よくないこともあります。
逆に嫌いなのに心地よいこともあるのです。
幼少期に貧乏で親の内職の手伝いをしていましたが、機械の部品のボタンを止めていく作業を延々とやったり、メガネのレンズを薄紙で包んで袋に入れる作業を延々と行いました。
こういった単純作業。
嫌いなんですが、ずっと続けていると心地よいのです。
山積みになったボタンを見ると達成感があるわけです。
山を登る前は一歩一歩登ることに嫌気が差すのですが頂上に近づくにつれて心地よくなるのです。
そこには達成感を味わえることが存在しているのです。
嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い
でもその先にある「心地よさ」に目を向けてみると
日常がまた一つ違って見えてきます♪
あなたの嫌いのその先へ。
サポート大歓迎です。!!明日、明後日と 未来へ紡ぎます。