どうしてカンボジアに学校をつくるのか


『father カンボジアへ幸せを届けた ゴッちゃん神父の物語』を観た。


このドキュメンタリーは、カトリック吉祥寺教会の神父である後藤文雄氏(以降ゴッちゃん)が精力的におこなっているカンボジアの学校建設がどうしておこなわれることになったのか。太平洋戦争を体験したゴッちゃんが、ポルポト政権の内戦で生き残ったカンボジア難民との関わり合いから生まれた学校建設の動機を観るものに追体験させようとする良作である。

このなかで最後にゴッちゃんが語るセリフが自分の中で深く共鳴している。

「他人のために行動することが自分の幸せになる」

この言葉だけ聞くと、厳かで徳の高い人の言葉のようであるが、この映画をみれば決してそういう高みから出た言葉ではないことがわかる。

ゴッちゃんは、別にやりたくて学校をつくったのではなく、自分と直接関わりのあるひとたちのために「やらざるをえないからやった」のである。

これは「中動態」的ともいえるかもしれない。(中動態の定義からずれるかもしれないから、あくまで「かもしれない」だけど)

僕自身もずっと教育活動をつづけていられるのはゴッちゃんと似ているところがあるからだと思う。

僕は先生になりたくて先生になったわけではない。はじまりはただのアルバイトだし、性に合わなければいつでもやめようと思ってはじめた。
それでもずっと続けられたのは、目の前で困っている子がいたら、助けざるをえないと感じて、ただ体が反応してきたからだ。

勉強ができないと困っている子をどうやったらできるようにさせられるのか?成績が伸びないとか学習意欲がない子が根本的に改善する方法を模索するとか、
こうしたら解決できるかもしれない。だったら一緒にやってみよう!と解決案が思いついたら躊躇なくやってみるとか、

困っている子を観察して改善策を一緒に試行錯誤しながら実践してきたにすぎない。もちろん、うまくいくこともあれば、失敗することもある。成績が伸びなくて、保護者から縁を切られることだってあった。

僕の場合、何とかしなきゃ!と切実に思う「反射」反応は、子供にしかほとんど反応しないので、教育分野が性に合っている。

塾講師アルバイトからはじまった教育活動もいつの間にか、家庭教師→集団でおこなう勉強合宿の運営→都市生活する子供のシェルター的に古民家を賃貸→非営利団体設立とつながっていく。これも目の前にいる子供たちを何とかしなきゃという思いが連続したに過ぎない。そして多くの教育者がそうやって「半径2m以内にいる子供達の環境」を変えるために行動しつづけているだろう。

目の前で溺れている子を救う。
この子と同じような境遇の子をも救うことを想像する。
この子が成長して、他の子を救えるようにする。

これらが叶う教育とは一体何かを自問する。

『father カンボジアへ幸せを届けた ゴッちゃん神父の物語』は、教育を実践する者のあるべき姿を再確認できるいい映画だった。

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