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オレンジ(2017)

2017年に書いた文

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 夜が遠のいて、真知子は寂しい夢を見た。女のキリンが真知子の前を歩きながら振り返らずにこう言った;愛する誰かに首筋を撫でて欲しいけれど、そうしてもらっても、どうしても満足できない。南の強い風がどこかからやってきて、わたしの首の上から下までしつこくさすり回しても、それでもわたしの本番はやってこない。
 真知子の額に雨粒のようなものがあたった。真知子が傘を広げると、彼女たちが歩いていた道は林の奥へと続く小川になった。
 真知子はラジオを聞いていた。男の部屋には、布団が一組と、ちゃぶ台にはパソコン、床に本があった。狭いキッチンのシンクとIHヒーターの隙間にぴったりまな板をおいて、男はその日もカレーを作っていた。真知子は首をもたげて後頭部を背中のように壁にくっつけてラジオを聴いていた。その部屋はいつも窓が開いていて、安物の黄緑のカーテンがやたらと揺れた。色の揃っていないハンガーと、ごみ置き場で拾ってきた一脚のダイニング椅子など物のすべてがちぐはぐで真知子は居心地が悪かった。
 男はふくらはぎが太くて、背が真知子より十センチだけ高かった。メガネをかけていて、外すと目が大きい。笑う時眉が下がり悲しそうな犬の顔になる。理想の恋人とはかけ離れている。それに、変な服も着ている。オレンジ色や紫の、目がチカチカする服。メガネも紫で見るたびに変だなと真知子は思う。友達の彼のほうがずっと素敵にみえた。真知子は男の好みを貫けなかった自分を恨めしいと思う。
 二人の関係はまるで恋をしている小学生同士のようだった。お互いを憎んだりするよくあるややこしさがすべて小学生のいたずらのようになって現れた。色々なものを抱きしめてやろうというアイディアも浮かばず、不安も何も起こりようがなかった。ただそこにあるベンチに並んで座ってはみたけれど、これから私たちはどうやって向き合えばいいのかわからないという状態だった。足元の石を掴んで遠くに投げたいとか、石がどんな風に飛んで、どんな風に落ちて土がどんな風に巻き上がるか、ただそれを二人で観察していたかった。けれども、二人の周りには最低限であるにしろ生活のわずらわしいものがたくさんあって、土の様子をじっとみるにはまだ不向きだった。
真知子はとても視力がよかった。自転車で新緑の並木道を走る時、葉のみどりが目の奥につきささってめまいがする。星のよく見える日、星の数が多すぎてうんざりする。他人のノートの間違いもよくみえる。友達の顔が引きつる前に引きつるところが動き始めるのがわかる。
男とスーパーで試食デートをしている最中、男が電話を取った。男の母からだった。男はひとりで店を出た。運転免許をとるためのお金を口座に振り込んだという連絡だった。真知子がスーパーを出たとき、移動式の焼き芋の屋台の前で男は泣いていた。僕は情けない。こんな生活をしていて、親にお金をもらって、情けない。男は田舎では大きな会社の息子で、末っ子だった。アルバイトもしないで女とこんな風にだらだらと毎日を過ごして、しかもどこの馬の骨ともわからないこんな女で、僕はなさけない。そういう風に真知子には聞こえた。
 桜が咲いていた。真知子はこれまで見ていた故郷の四季と自分が住んでいる街の温度をうまく噛み合わせることができなかった。それから、男より先にわずかの間働いてみた。思いの外疲れたのですぐにやめた。それが男に知れたあと、一緒にスーパーに行き安い弁当を二つ買った。二人は黙ったままだった。真知子がお金を払うと、弁当をつめながら彼は これが、お前が稼いだ金で買った弁当か。とつぶやいた。それからまた二人は何も話さなかった。頑固な親方が一度だけ弟子を褒めたときみたいな口調だった。真知子は寂しかった。
 別れの時刻がやってきた。ふたりは月のうたをよく聴いた。そして誓約書を交わした。わたしたちは別れること・できるだけ早くふたりの時間を忘れること・もらったものは、気が済んだら捨てること・もう家にはいかないこと。
 一度だけ約束を破った。真知子は鍵をなくして男の部屋に泊めてもらうことになった。月が青い日だった。黄緑の安いカーテンから光が透けて、ちぐはぐなものたちが白く光っていた。二人は机を挟んで別々に眠った。真知子はその夜に見た夢を長くは覚えていなかった。けれど、男に借りた毛布の匂いはしばらく忘れなかった。

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