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私は優しくないが、よく泣く


「有香」という名前は、本当は、「優香」になる予定だったらしい。
母親曰く、優しい子に育ってほしいからと、「優」の字を入れようとしたものの、画数のおおい漢字を避けて「有」の字を採用したのだそう。

おかげで、電話口で名前を伝えるときには「有名のユウです」「有限会社のユウです」などと言わなければいけない。同じユウなら、「優しいという字です」と言いたかったのに。
それに、もしも私の名前に「優」が入っていたなら、もっと優しい子に育っていたかもしれないじゃない。
画数なんてどうでもいい。
習字の授業でぐちゃぐちゃになったっていいから、強制的に優しい人間に仕立て上げて欲しかった。
「有」の字ですら、美しく書けたことなんてありやしないんだから。

子どもの頃は自分の名前の由来を正直に人に話していたけれど、大きくなるにつれ、この話ができなくなった。自分が優しくないことに気づいたからだ。
たとえば悩んでいる人の話を親身になって聞くとか、誰にでも朗らかに声をかけるとか、相手が喜ぶ言葉を選ぶ、といったことが得意じゃない。
犬にもネコにも好かれないし、たぶん私は、優しくないんだ。
間も無くして一人称が「マエカワ」になった。
あだ名は自分から名乗るようにして、「まえちゃん」に統一した。これなら、優しいユウカじゃなくても大丈夫。だれにも、優しくないユウカだと気づかれないから。

この名前をもらってしまったから、優しく在れないことが、コンプレックスになる運命だったのだ。

ただ、優しくできないからと言って、人に関心がないというわけではない。
むしろ、人の感情は嫌というほど伝わってくる。
息をのむ音とか、表情も、言葉も、話題選びの理由も、深く深く考える。
考えすぎて、他人の言動の裏側に潜むコンプレックスやしがらみまでを、空気の中に見つけてしまう。
それは膿のように複雑に息をしていて、到底直視できない。
触れることに躊躇っているうちに優しさを発揮するタイミングを失い、なにも話せないまま過ぎていく。
結局わたしは、相手が期待している優しさをあげられない。
そんなことを何度も繰り返して、自己嫌悪に陥っていく。

そしてわたしは、優しさとして打ち返すことのできなかった、他人の痛みや悲しみや怒りを、しばらく保管しておく癖がある。ジップロックに入れるように、いくつも小分けにして持ち帰るのだ。

家に帰ると、保管した苦しみを取り出し、それをレンジでチンして泣いている。
たとえば失恋でどん底に沈む人が隣で泣いた日は、彼女が泣く理由をテーブルに並べて思い出をかじりながら泣く。
マウントをとってくる社会人に会った日は、本人が抱える焦りや畏れに私が追いかけられて泣く。
電車で喧嘩をする人を見た日は、彼らが抱える自己嫌悪の海に溺れて泣く。
知識で武装している人を見ると、自ら削り続けたコンプレックスまみれの魂が痛々しくて泣く。
自己中心的な言葉に傷つけられた日は、彼が愛されなかった日々を私が思い出して私が泣く。

目の前で起こった出来事に泣くのではなく、他人の内側について妄想を膨らませて泣くのだ。
この作業は優しくできなかったことの罪滅ぼしか、それとも自分自身のコンプレックスを重ね合わせて感傷に浸りたいだけなのか。
泣いたあとは、保管した苦しみから逃れることができた。
私は涙を、シャワーのようにでも思っているのだろうか。


流した「苦しみ水溶液」がどこに行ったのかは知らない。
いつかどこかに溜まって、良いものか悪いものに変化してもう一度現れるのかもしれない。
それが良いものであることを願って、優しくなれる日のために、今日も感情を持ち帰る。


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