二分の一の確率には当てはまらないという、根拠のない自信

有料マガジン「&JOY」を廃刊します。

有料マガジン自体を削除する予定なので、そこにしまっていたnoteをぽつぽつと出しています。

2018年に書いたものなので、ここに登場する父は2019年2月に亡くなっています。ですが、病気が見つかってすぐのころに話していたことなので残しておきます。(年齢等、一部加筆修正しています)

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父が病気になったことで、最近頻繁に実家に帰省することになった。

とはいえ、実家に帰っても、父も母も姉も、これまでと大きな変わりがあるわけではなく、粛々と暮らしている。心に思うことはみなそれぞれあるみたいだけれど、受け止めている。

お薬を飲んだり、順番に血圧を測ったりしているけれど、それ以外は変わらずテレビを見たり、パズルを解いたり、これまで通りの日常がそこにはある。ように見える。

姉と話す機会も増えたけれど、父の病気についてはあまり不安がっても仕方ないよね、という意見で一致している。そのため深刻になりすぎないのがありがたい。ただ、先日話したことで少し心に残っていることがあったので書き留めておこうと思った。

日本人の二人に一人はガンになる可能性がある。

こういったフレーズをうたう生命保険のコマーシャルが流れている。実際にガンになった、と聞くことも多いし、父もガンになった。(父のガンはC型肝炎ウィルスを治療しておらず、そこからの発生と考えられている。もっとも、C型肝炎ウィルスの治療をしないと決めたのは父自身なので、家族はそれを尊重した)

けれど、こんなに身近な病気であるのに「私だけはガンにならないだろう」という、根拠のない自信があるのは何でだろう? と姉と話し合った。

私の実家は四人家族。二人に一人がガンになるとする。父がガンになったから、母はガンにはならないかもしれない。ここまでの認識は姉と私で共通していた。けれど、この二分の一の確率のとき「きっと私はガンにならないから、姉が、又は妹が、ガンになるかもしれないな」とお互いが思っているというのも事実だった。

私だけは、その病気にはならないだろう、と。なぜそんな風に思えるのかは分からない。ロシアンルーレットで、自分が引き金を引くときには銃弾は発射されないんだと、なぜ言えるのだろう? けれど、「私がガンになるかもしれないな」とは思えない。いや、思いたくないだけなのだろう。

昔と違って、ガンはきちんと治療すれば治ることも多くなっている。今回、病院からこんな風に診断されたよ、と事後報告として姉が教えてくれる。それを聞くかぎりでは、父のガンは大きくなっているものの、深刻になり過ぎることもない、と思える診断を今のところは下されている。それに、早期発見であれば割とさっと治る見込みが多くなっていることも実感している。

だから、ガンという病気をひとくくりで考えるときに「死の病」と思い込み過ぎるのも、ちょっと違っている。

「将来的にガンになるかもしれないな」と思いながら過ごすのはあまり健康的ではないかもしれない。病は気から、とも言うし。

けれど、「私はならない」という根拠のない自信だけは捨て去った方がいいのかもしれない。ガンになる可能性はある。そう思って検診を受けることが、やはり早期発見につながる。

父は退職してから、大規模な精密検査や健康診断は受けておらず、結果的にガンを見過ごしていたことになるのだ。「自分はガンには罹らない」と思っていたと父は話していた。

自分はその立場にならない、と思い込む方が楽ではある。もしかして病気になるかも、なんて思いながら暮らすのは、不安で仕方ない。けれど、事実としてあり得ることから目をそらしているだけとも言える。

病気になる可能性。事故にあう可能性。

可能性を言い出したら切りがない。どれだけ注意していても、偶然巻き込まれることだってある。けれど、予防や対策は立てられるものも、少しはある。何もかもを取り入れる、というのはどうしたってできない。最低限、自分にできることをやる、というのが最も効率的といえるだろう。

姉も私も「めんどくさくても健康診断はちゃんと受けよう」と、静かにうなずきあった。


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