向かい合う日々

鏡の前に立つ時間が、少し長くなった。

自分の顔はそれほど気に入ってるわけでもない。それでも、鏡に映る顔をぼんやりと眺めるには理由がある。

今年、父が亡くなった。肝硬変からなる肝臓ガンが見つかってから、一年も経たないうちに。せっかちな父らしいといえなくもないのだけれど、父はどこか自分の死を早くから受け入れていたようにも思う。

父の死を通じて教わったものがある。

いくつかあるのだけれど、一番大きなものは、死の時期は自分で決められるというもの。自分の命は、自分の意思そのものだと教えてくれた。

父は風呂場で意識を失い、救急車で運ばれた。風呂場で溺れている父を見つけたという母は、慌てながらも冷静だった。風呂場で溺れている人を見たら、まず風呂の栓を抜いて、溜まっている湯を減らすのが良いらしい。何かで見た知識が役立ったと、母は思い出しただけでも青ざめた様子で話してくれた。

救急車で運ばれたものの、父は数時間後にはけろっとしていた。けれども、病気によって意識がぼんやりとしていたり、会話がままならないこともあった。

慌ててお見舞いに行くと、父は「わざわざ来んでいいのに」と、わたしに向かって申し訳なさそうにしていた。ちょっと倒れたぐらいのことで、大袈裟やで、と。病院で食事中の父は「これ何やったかな?」と、シイタケの薄切りをつまんで、名前が思い出せないことを悔しそうに首を傾げていた。そうして、わたしが帰るまぎわに、「日にち薬で、ちょっとしたら良くなるから。そない心配せんでもいいで」と力なく笑っていた。

わたしは父と少し手を握って、そうして病室を出た。それが、わたしが父と交わした最後の言葉だった。

父の容体には波があった。肝臓の状態はもう治療の施しようがないところまできていた。ただ、心臓が強いようで、どうにか身体が保たれているという診断をされた。このまま救急病院に入院し続けるのは難しく、緩和ケアのある病院への転院することが決まった。けれど、その時は空きがなくてすぐには転院できないため、少し準備をしましょうと医師から告げられた。

父は転院するのが嫌だったのだろう。その説明を医師からされて一週間も経たないうちに、父はこの世を去った。

父は亡くなる前に、母と姉に「もうこの様子やと、ぼちぼちあかんな」と言いながら、あることを告げた。それはヘソクリの場所だった。

父は、自分より年上の兄弟が亡くなった時、供花代をさっと出せるようにヘソクリを準備していた。父にはヘソクリがある、というのは母も姉も私も知っていた。けれど、それは父が稼いで、父が貯めたお金だ。ギャンブルに興じることもないし、好きに使えばいいと探ったことはなかった。

ただ、父は、自分が居なくなってしまったら、そのお金は見つからないまま処分されてしまうかもしれないと不安になったのだろう。母と姉の二人がお見舞いに行くたびに「20万、ヘソクリがあるから。寝てる部屋の枕元にあるから」と何度も伝えていた。

母も、姉も「わかった、わかった」と、いうと父は安心した様子だったという。父はもう言い残すとはない、と安堵したに違いない。そうして父は世を去っていった。苦しむ様子もなく、本当に眠るようにあっという間だった。

父は安堵の先に死を迎えた。思い残すことはない、かどうかは正直なところ分からないけれど。ただ、父の死を見ると、死はそれほど悪いものでもないのかもしれないと、私に気づかせてくれた。


実際に父が死を迎えたけれど、私はずいぶん前に、死について意識したことがあった。それは2011年の東日本大震災だった。

3月11日、大阪の家族と電話をしている最中に地震が起きた。引越しをしたばかりで、ようやくその日の午前中に電話回線工事が済んだと報告をしていた時だった。

電話の先で母の声が突然ぷつりと消えた。実際には神奈川にいた私が揺れていたのだけれど、突然消えた母の声が、死を予感させるもので、あまりにも恐ろしかった。

地震が起きたあと、私は坂道を歩くようにした。比喩でもなんでもなく、本当の坂道。私の住まいは海に近く、大きな津波が来たら少しでも高い場所に走って逃げなくっちゃいけない。近隣にある急勾配の坂を、ひたすら歩いて登る。坂道をうまく登らなくちゃいけないからと、私はヒールの高い、おしゃれな靴は怖くて履かなくなった。

何度か坂道を登り終え、下りの、見晴らしの良い場所で足を止める。その時に、ふと父と母の死について考えた。災害のように、暴力的ではなくても、父と母はいつかいなくなる。もちろんそれは、年齢順ではないかも知れないけれど。

ただ、私自身の身体には、いくつかの特徴がある。鋭い目つきと、しっかりした鼻筋は父譲り。への字口の形、ランドセルを背負えない程のなで肩、黒意思の強い毛髪は母譲り。

父と母がこの世から消えてしまっても、自分の身体は、父と母の細胞からできているものだ。消えてなくなったわけじゃなくて、自分自身の中に、二人は存在しているんだ。

そう思うと、なんだかふっと気持ちが楽になった。父と母が居なくなっても、私の中に、二人はいる。それは、私が死ぬ時であっても、私の中に二人はいる。あれやこれやと口出しこそしないけれど、声を聞こうと思えば、自分だけには聞こえてくるかも知れない。

父や母の死を、恐れることはない。二人がこの世を去ったとしても、善かれ悪しかれ自分の中には存在しているのだから。

***

父が亡くなって、母と姉と私の間にはぽっかりと穴が空いたような喪失感がある。それは確かだ。穴は、少しずつ埋め立て工事をするより他に術がない。

ぼんやりとした喪失感に付きまとわれるとき、私は鏡の前に立つ。鏡に向かって、ぎゅっと睨みつけてやる。そう、父が時折怒ったときにしていたその目つき。その目つきで、喪失感を追い払うしかない。

私に備わった父の存在だけが、その役割を担うことができるのだから。










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