いまならば、「北の国から」を見られるだろうか。

すこしまえに、ほぼ日で「はじめての『北の国から』いまさら最初の24話を見る」というコンテンツが公開されていた。

「北の国から」を見たことがない永田さんが、一話からみて、感想を書くというものだ。

「北の国から」というドラマは、ハマる人は抜け出せないくらいにハマる。一度も見たことない、というひとはずうっと見る機会がなく過ぎていく。もちろん、ほぼすべてのドラマで同じことが言えるのだけれど。古畑任三郎でも、おっさんずラブでも。

「北の国から」はいいドラマだと思う。けれど、どうにも好きになれない。

それはドラマのせいじゃない。ドラマがつまらないとか、そう言った理由じゃない。ドラマとリンクした思い出があり、それを思い出すたび、とにかく腹が立って悲しくなるし、いらいらした気持ちが抑えられない。

ただ、今回ほぼ日のコンテンツで永田さんがさらりと書いたある感想を読んで、「ああ、そういうことか」と、急にわだかまりが溶けたように感じた。

何にそんなに腹を立てていたのか。

永田さんの言葉を借りるなら、以下のようなことだ。

全体に、どの男もみんなそれぞれに愚かで、
正直にいえば、ぼくは全員にちょっとずつ共感する。
『北の国から』は、男の愚かさの描かれ方が、
ほんとうに見事だと思う。
あんまり男だ女だということで語るのは
いいことではないのかもしれないが、
ぼくら男は、このようにさまざまに愚かだ。(#18 愚かな男たち より)

22歳のわたしは、当時付き合っていた彼と半同棲のような暮らしをしていた。

大学を卒業したものの、就職を決められなくて、ぐずぐずと派遣社員として働いていた。実家に帰る、という選択肢も目の前にチラついていた。けれど、折り合いの悪い父親とまた一緒に暮らすのはいやだった。実家に帰るのは最終手段だと、そう考えていた。

大学一年の秋から付き合っていた彼は、「いい男」とは言えなくなっていた。いや、「良いな」と思うところよりも、「嫌だな」と感じるところにばかり目が行くようになっていた。付き合いが長くなった、といえばそれまでだ。けれど、「これぐらい許してくれるでしょ」という、横柄な態度ばかりが目についた。それはきっと、お互いさまだったのだろうけれど。

さっさと別れればよかったと、今なら思う。けれど、その当時は、「別れるのも、なんか寂しい」くらいの気持ちでただズルズルと付き合いが続いていた。

その男はいろんな面においてルーズで、お金もわたしに借りまくっていた。「もう貸したくない」とわたしがぴしゃりと言い放つと、しぶしぶと「分かった」といいながら消費者金融でコソコソお金を借りていた。男は正社員で働いていたけれど、ギャンブルもするし、前後不覚になるまでお酒を飲んでいた。要するに金遣いが荒かった。半同棲も、家賃は半分ずつね、という約束もほとんど守られることはなかった。

そんな彼が、なぜか「北の国から」にハマっていた。おそらくテレビ放映された「北の国から2002遺言」の再放送を見たのか、夕方にでも再放送されたテレビドラマ版の「北の国から」を見たのだろう。

そのハマり具合は本当に突然だった。しゃべり方も田中邦衛さん演じる五郎さんのモノマネみたいになっていた。

ただ、わたしも並んで「北の国から」を一緒に見たという記憶がない。わたしは派遣社員で百貨店に勤務していた。彼はチェーン展開の居酒屋の正社員だったので、夕方になれば仕事に出かけていき夜中か朝方に帰ってきた。暮らしの交わるところがほとんどなかった。

ただ、ときおり交わす会話のなかで「北の国から」の頻度が高くなっていたことだけは覚えている。

彼は、近所のレンタルビデオショップで、ビデオを借りてはちょっとずつ見ていた。テレビシリーズの一話から順番に。少しずつ少しずつ話が進んでいく「北の国から」の、素晴らしさや面白さを興奮気味にわたしに伝えてきた。けれど、「ドラマのなかの、つくられた人間ドラマに感動していないで、わたしたちの関係を考えた直す時期なんじゃないの」と、冷めた口調で言い放つわたしに、彼はかなりむっとしていた。「お前みたいなバカには『北の国から』の良さは分かんねえんだ」などと言われ、ケンカになったこともある。

しかし、レンタルビデオで借り続けていた「北の国から」を、突然見なくなった。何本かまとめて借りていて、まだ見ていないテープもあるのに。少しの間「北の国から」の話題も避けているようだった。

どうしたんだろう? と不思議に思ったけれど、理由がすぐにわかった。次に見るのが「’92 巣立ち」という回だった。

少しネタバレになってしまうけれど、「’92 巣立ち」で、純は付き合っていた女の子を妊娠させてしまう。妊娠した女の子は、堕胎手術を受ける。

その時、わたしは「妊娠してるかも?」という不安が胸のうちに会った。生理がずいぶん遅れていたのだ。避妊をしていても、妊娠することはある。それを考えると、胸の中がシンと暗く静まり返った。どちらにするにせよ、いろんな覚悟をしなくちゃいけない。そう思った。

一緒に暮らしている彼も、わたしの生理が遅れていることを知っていた。毎日「今日はきた?」と聞いてくるので、「まだ」と答えるとあからさまにがっかりした顔をしていた。

それから数日後に、一か月近く遅れていた生理がやってきた。わたしもずいぶんホッとしたけれど、彼も飛び上がらんばかりに喜んでいた。そうして、笑いながらこう言った。

「『北の国から』の続き、純が女の子を妊娠させて、堕ろす内容だったんだよ。自分の未来を暗示するみたいで、怖くて見れなかった」

そうして彼は「さ、ようやく見れる」と、いそいそビデオテープを取り出して、ドラマの続きを見始めた。本当に、何事もなかったかのように。

その様子が、とにかく腹が立って仕方なかった。「よくもまあ気楽に言えるね」と、少しでも責め立ててみれば、なにが議論を交わせばよかったのかもしれない。でもそれすらできずに、ただ黙ってぼんやりと「北の国から」を見ている彼の背中を見ていた。


それから数か月後に、わたしはその彼と別れた。

「北の国から’92」では「誠意って、なにかね?」というセリフが出てくる。

結局のところ、彼の誠意が感じられなかったのだろう。そもそも、誠意のある付き合い方じゃなかった。彼もわたしも。

20代半ば、真剣に付き合っているとはいえ、遊び半分の彼女に対して誠意を持つのも難しいかもしれない。でも、わたしはあの時、彼が放った言葉に傷ついた。それまでにもいくつかの傷はお互いつけ合った。

けれど、あの一言でついた傷はわたしの心のなかでぐちゅぐちゅと化膿した。心の内で彼が住んでいた場所は、朽ち果てて、ぐしゃっと落ちたのだ。

もう少し早い段階で、撤去作業でも行えることができていたらよかったのに。そう思ったところで、もう15年以上もすぎた話だ。

「北の国から」があまり好きになれない理由は、そこに描かれる「男の愚かさ」をみたくないからだろう。あまりにもリアルで、ぐちゃぐちゃとして、いろんなパターンの「男の愚かさ」を、まざまざと見せつけてくる。

ただ、こうして書いてしまえば、わたしの体験なんて大したことない。20代そこそこでは、しっかり嫌な気持ちになったことは確かだ。けれど、40歳目前にもなると、「そういうこともあったね」という事実確認程度の受け取り方になる。笑い飛ばせばいいのだろうけれど、まだそれはできない。

ただ、いまとなっては「それはドラマの話でしょ」と割り切ることができるだろう。今後改めて「北の国から」を見てみようと思うかは分からないけれど。












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