1分くらいで、世界は変わる。

「よう動く足やなぁ」
母が言った、私にとっては名ゼリフと思える言葉だ。

私に言ってくれたのではなくて、一緒に暮らしていたチワワにかけた言葉だった。
猛ダッシュをしたとき、足の動きが見えないほどに動き回るため、母なりの褒め言葉だった。

そのチワワは、昨年の9月に突然死んでしまった。真夜中に突然痙攣しだして、五分ほど苦しんだ後には、もう心臓が止まってしまっていた。

私達家族は、あまりのことに事態を受け入れられなくて呆然としていた。
父も母も姉も、そして私もただ、泣くしかなかった。
何をしていても涙が溢れてしまった。会話をしている途中に涙がこぼれて、「ちょっとゴメン」と言っては、ティッシュペーパーで鼻をかんだ。

動物霊園で火葬してもらうとき、チワワの亡骸を見て「ああ、もうこのかわいい足は、ちょっとも動かないんだな」と思った。
あんなにも、よく動いて。
あんなにも、駆け回っていたのに。
もう、動いている姿を見ることはできないんだなと思うと、やっぱりまた、涙が出てきて止まらなかった。

今朝、お盆法事に出かけるために、早く起きた。
時計がわりにテレビをつけると、本当に偶然世界陸上が放送されていて、運良く見ることができた。私は陸上競技に対してそれほど知識もないし、今大会にいたっては、本当に申し訳ないけれどネットのニュースでちらりと結果を見ることもある、程度だった。

日本チームが400メートルリレーの決勝に出場する、というのはちらりと見て知っていたけれど、その決勝が今朝だとは知らず「偶然早起きしてラッキー」くらいに思っていた。

出かける支度をしながらなので、真剣に見ていられないなあと思っていた。出場する国毎に紹介されて、一人ひとりの100メートルタイムが10秒程度ならば、×4でも1分もかからないんだなと、ぼんやりとした頭で食パンをもそもそ食べながら考えていた。

ウサインボルトが引退前の最後のレースだとアナウンスされていた。
「オンユアマーク」から「セット」までの時間がかなり長く感じられた。
そこからはテレビに釘付けになった。

日本チーム、早い!
アメリカはもちろん早いと思っていた。
意外と言っては失礼なのかもしれないけれどイギリスも早い。
ボルトがアンカーを務めるジャマイカは、ちょっと遅れているように見えた。
だけど、ボルトの、あの「よう動く足」があれば、追い抜くこともできるかも、と思っていた。

思っていた、のだけれど。
レースに、何が起きるかなんて誰も予想できない。
いくら練習していても、オリンピックで何度も金メダルを獲得していても。
最後の大一番で、まさか足を痛めてしまうなんて。
テレビの画面から、フェイドアウトしていくボルトの姿。それと同時に一位争いは行われていてる。
画面の右側に進んでいく選手達と、左側に取り残された選手。

本当に、一瞬の出来事だった。

日本チームは三位、銅メダルを獲得した。
おぉーー! と喜びの気持ちもあるけれど、ボルトの痛々しい姿を見ると、なぜか悲しい気持ちも込みあがる。

彼の、「よう動く足」を見ることは、もうないのだ。

あっけなく、厳しい幕切れに、私はしばし呆然としだけれど、出かける時間が迫ってきていることに気がついて、日焼け止めクリームを手に取った。
ほんの、瞬きしている程度、1分くらいの出来事でも世界はガラリと変わってしまう。
それは、あっさりと、残酷なほどに。
そんな残酷なカケラを積み重ねながらも、図太く私は暮らしていく。

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