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死ぬ間際までやりたいこと

信念ともいえるものがある人は、行動にも考えにもブレがない。

もっとも、わたしの話じゃあない。わたしには信念と呼べるほどのものは持ち合わせていない、残念ながら。

ただ、わたしの夫には信念ともいえる行動基準が確実に存在している。その信念は「釣り」。たんなる趣味の一環じゃないかと思えるのだけれど、夫にとって釣りは生きがいそのもの。裏を返せば、釣りができなくなれば死んでしまっても構わない、ということかもしれない。

ずいぶん大げさな話に聞こえるだろうけど、ここ最近の夫との会話でそれを実感した。

たまたまチャンネルがあっていた再放送のドラマを見ていた時のことだ。

「がんを患っており、余命宣告をうけた女性が生きる気力をなくしてしまっている」というシーンがあった。そのドラマの主人公は、一風変わった経歴を持つ医者で、余命宣告を告げた女性の担当医と余命宣告の在り方について患者にどう伝えるか、話し合いをくりひろげるシーンがテレビの中で流れていた。

そのドラマを見ながら、わたしは夫に「あなたは余命宣告をしてほしい?」とたずねた。

がんであるかどうかを患者に言わない、というのは現在の医療を考えると、治療を進めていくうえで不可能だろう。けれど、余命があとどのくらいか、というのは患者自身が知りたくない場合もあるだろうとは思う。夫はどうだろうか? もしその時が来たら、わたしの判断で夫が後悔しないように知っておきたかった。夫は怖がりだし、心配性だから聞きたくないかもしれないとも感じていた。

夫にたずねる前に、「わたしだったら、教えてほしい。死ぬにはいろいろ準備が必要だろうし、やれることはやりたい。突然亡くなる可能性のほうが高い気もするけど。余命がある程度でも予測できているなら、知っておきたい」と伝えた。夫にたずねるばかりで、私が答えておかないのはフェアじゃないと思ったからだ。

夫の答えは「え? そこ?」と思える基準だった。

「余命宣告は教えてほしいなあ。自分の人生で、あとどれくらい釣りができるのか、知りたいもん」

死ぬ間際まで釣りをしたい、という明確すぎる回答に、ちょっと拍子抜けだった。けれど夫の行動基準のすべてが釣りに向かっているのなら、分かりやすくていい。幼いころから釣りに取りつかれた人生を送っているだけのことはある。

外出自粛を余儀なくされ、釣りに行けない今だって「釣り人がいかなければ、魚が大きく育つかもしれない。次に釣り上げたときは大物になっている」と、前向きだ。

夫がいま狙っている魚種は、めったに釣れるものではなくて、年に一度でもお目にかかることができれば最高なのだという。詳しく聞いてみたけれど、「それ釣りっていうか、もはや修行じゃないの?」と言ってしまうほど、イメージしていた釣りとは、かなり違っていた。

夫の行動のほとんどは、釣りに直結している。釣りの道具を買うためにタバコもやめたし、床屋で髪を切る代金すら節約したいといわれ、わたしがバリカンで刈ることもある。わたしの散髪はかなり下手くそなので、夫はブーブー文句を言うのだけれど、それでも「髪はすぐ生えるから」と散髪代をいそいそとためている。

最近では釣り仲間とほぼ毎日一時間程度電話で話していて、幻の魚を釣るにはどうしたら良いか、延々と話しているし、その友人から借りた釣りのDVDを見て、釣り方のイメージトレーニングまでしている。

自分の死すらも魚釣りに捧げているのかと思うと、夫に対して少しだけ恐怖すら感じるし、夫に何か質問しても「ごめん、釣りのことを考えてた」といわれ会話が成り立たないことだってある。

ただ、命の期限を告げられたとしても、「残りの時間をすべて釣りに捧げたい」といえるほどに熱狂しているものがあるのは、少しだけうらやましい。





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