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気持ちの変化は、すこしずつ。

ここ最近、更新してはいるものの、意図的にまとまった文章をnoteでは書かずにいた。

庭で咲いている花や、一緒に暮らしているネコの写真だったり、読んでいる本の紹介、とまでは言えない程度の内容をつぶやいたりしていた。

文章を書けなくなったわけじゃない。なんだか文章を読むのが辛くなってしまったからだ。

なんというか、わたしには情報過多な期間だったのだろう。新しいweb配信サービスを利用したり、普段はそれほど見ないテレビをつけてみたり。何が起きているのか、冷静に判断しなくちゃと思う反面、いろんな情報を浴び続けていた。

わんこそばのように、いろんな情報が「はいはい、どんどん」と、とどまることなく身体の中に入っていた。どうにも蓋を閉めるタイミングをつかみ損ねて、「もういいです」と、どこかでくぎりをつけたいのに。もうまんぷくでくるしいのに、またお椀におそばをついてもらったから食べなくっちゃ……というような状態にちかいだろうか。

わんこそばが悪いわけじゃない。けど、もう当分そばは見るだけでお腹いっぱい。もう年越しそばだって食べなくっても良いよね。なんなら、うどんも、もう今年は食べなくてもいいかな、くらいの気持ち。

noteのタイムラインに流れてくる文章は読めた。けれど、自分が書いた文章を書いているそばから読むのがイヤになってしまって「あ、当分まとまったテキストを書くのはやめよう」と遠ざけていた。なんというか、あんまりプラス思考なことばかりも書けないし、かといってグチみたいなことばかり書いてもしかたないし。

どうしたって、目にするものが不安な内容が多いためか、意図的に文章を読むのを避けてもいた。積読になっていた本だって、新しい刺激を受けるのをどこかしら避けていたのだろう。以前読んだことのある本を読み返して、安心を得ることの方が多かった。再度読み返すことで目新しい発見はあるものの、ストーリー展開などでショックを受けないようにしたかったのかもしれない。

といいながら、鬼滅の刃を全巻一気読みして、けっこうなショックを受けたりもしたけれど……。話は逸れるけれど、鬼滅の刃はわたしが嗜んでいる、ロシア武術・システマのスクールで「システマの呼吸は鬼滅の刃の呼吸と同じだよ!」と興奮気味に言っており、ずっと気になっていたのでこのタイミングで読んでみた。いや、本当にかなり似てる。(何が似ているか書かなくっちゃ)

それはさておき、だ。

すこしずつ、日本の情勢も変動してきているし、もうニュースを追いかけてみることもほとんどない。一か月半も経ってようやく、積読になっていた本にも手を伸ばし始めたし、少しずつでも書こうかなという気持ちになってきた。

書くか書かないかは、自分のペースで決めればいいよね。「みんながやってるから、やらなくっちゃ!」というのは、どうかんがえても違うだろうし。書いたものを読み返したくないのは、単純にわたしがずぼらだからかもしれない。





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