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楽しみはいつだって見つけられる

先日、「生活のたのしみ展」に行ってきたというnoteを書いた。そこでは、わたしは気持ちばっかり焦ってしまって、何事もゆとりがないと楽しめないなあとガックリした気持ちを書いた。

けれど、「生活のたのしみ展」で迷わずに買った「金のさんま」が、ゴールデンウィークの初日に、たのしみをもたらしてくれた。

冷蔵庫を開けた瞬間に、夫が「あ! 金のさんま買ってきたの! やったー!」と、大よろこびしてくれた。わたしが「あー、うん。一緒に食べようと思って」というと、夫はカレンダーに「金のサンマ」と、わざわざ書き込んでいた。

カレンダーに書き込むほどのことじゃないと思うのだけれど、夫とわたしは仕事の都合上、一緒に夕飯を食べる機会が少ない。そのため、休みが重なる日に一緒に食べるのを忘れないようにしようと、書き込んでいたのだ。

ゴールデンウィークの始まりに、ゴールデンさんまだなと思いつつ、サンマは英語でなんていうんだろうか? と調べたり。「金のさんま」でひとしきり楽しむことができた。

金のさんまを食べる当日も、夕飯のメニューの一品だから、他のおかずはどうするかとか、昼食はたくさん食べると夕飯が食べられないから抑えとこうとか。夫の「金のさんま」を食べるための情熱がすごくて、「これほどまでに喜んでもらえるなんて、買って帰ってよかったなあ」と純粋に嬉しかった。

夕飯の一品として金のさんまを食べた。相変わらずおいしくって、1パック6切れ入りで、「1人3切れは物足りないかもしれない」などと、欲張りなことをいっていたけれど、大満足の夕食だった。

夕食ひとつを取っても、楽しみを見つけることはできる。最近、ほぼ日の「今日のダーリン」に(糸井重里さんが毎日書いていらっしゃるミニコラム)「たのしみが足りないんじゃないか」というような言葉を書いてらして、ハッとしたことがあった。

何にでも、たのしみを見つけることができる。反対に、嫌なことも見つけられる。どちらに焦点を絞るかで、ものごとの見え方はぜーんぜん違ってしまう。

わたしが「これしか買えなかった」としょんぼりしていた金のさんまも、ウキウキとたのしみな夕食メニューとしていつの間にか形を変えていた。楽しみはどこにでもあるけれど、それを見つけられるか、それに気付けるかどうかで、全然違ってしまうんだなと感じる。

辛いとか、いやだと感じる側面の方が、見つけやすいけれど。

いつでも楽しく、ごきげんに。できればそうありたいものだ。


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