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自分の中にある不確かな不寛容さ

ふとした出来事がきっかけになって、自分の内にあるひそやかな不寛容さと向き合うことがある。

わたしの場合、わたし自身の不寛容さと向き合うのは玉ねぎを手に取るときだ。

玉ねぎを調理すると、しばしば嫌な気持ちになる。玉ねぎを手に取るとき、薄茶色の皮に包まれた状態が多い。紡錘形の玉ねぎは、これから芽を出す部分と、土の中から収穫され、出荷されるために切り取られた根っこの部分がある。

この、切り取られた根っこの部分を、どうしても好きになれないことに最近気がついた。

この根の部分には、ほんの少しの泥が付着している。まな板の上で切り落とすとき、その根っこについた泥がパラリと落ちることがある。まな板に少し水分が含まれているときは、そのまな板の水気に、泥がじわっと広がりさえする。

本当に些細なことだけれど、玉ねぎの、その泥がどうしても気に入らなかった。目にするたびに、苛立ちを覚えた。

野菜に泥がついていること自体は、それほど問題視していない。ごぼうだって、ジャガイモだって、皮の表面にはうっすらと泥がついている。泥つきのネギを買うことだってある。使う前に水でよく洗うし、野菜についた泥を不衛生だと思うわけでもない。野菜は土のある環境で作られているのだから、そういうものだと分かっているつもりだ。

それなのに、玉ねぎについているほんの少しの泥が許せない。なぜかは、わからない。ただ、無性にいらだたしく感じてしまう。

意味もなく苛立つのが嫌で、自宅で料理をするときには、極力玉ねぎを使いたくないとすら思っている時期があった。玉ねぎを避けてさえいれば、この苛立ちは起きることもない。

それでも、やっぱり玉ねぎが入ってると美味しい料理、カレーや親子丼なんかに関してはどうしても使わざるを得ない。代用できる食材でごまかすこともある。けれども頭の片隅で、玉ねぎの不在を申し訳なく思う。

なぜ玉ねぎの泥に対して、これほどまでに苛立つのか自分でも理解ができない。色々と自問自答してみた結果、まな板に泥がつくのが嫌だ、というひとつの推論にたどり着いた。この答えが100%正解だとは言えないけれど。自分がなぜ嫌悪感を抱いているのかすら、本当のことはいまだにわからない。

最近ではまな板に玉ねぎを乗せないで、根っこの部分を切り落とすようになった。なれてしまえばそれほど難しいことじゃない。玉ねぎの幾重にも重なる皮を外してからじゃないと、持っている手がガサリと動く。玉ねぎの根っこだけではなく、手にザクリと包丁が刺さりそうになるので、注意深くならざるを得ない。

わたしにとって、玉ねぎを扱うときは、かなり慎重に向き合わねばならない。そうして、玉ねぎと向き合うたびに自分の中にある、理由が定かではない不寛容さを認め続けることになる。

わたしの中にある不寛容さは、何も玉ねぎだけの話じゃない。玉ねぎはひとつの事例に過ぎない。自分で理由も定かではないのに、苛立ちや嫌悪感を抱いてしまう物事があると、思い知らされる。自分には、そういった考え方や側面がある人間だということを。




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