さようなら後厄、こんにちは前厄。
「え? いま何歳だっけ?」
先日、突然夫に歳を聞かれた。
夫は自分の年齢がいくつになっているかが、いまいち掴めずにいるらしい。まだまだ若いつもりでいるのだろうけれど、そういうわけにもいかないのだ。
「あなた、来年、四十歳だよ」
四十歳、という年齢を口に出すのが ぎょっとするくらい、なんだか夫婦二人ともまったく実感がない。
「ちひろは、何歳になるの?」と聞かれたので「わたしは三十八歳」と答える。早生まれなので、年が明けて少したてば、わたしは誕生日を迎える。夫はわたしと二歳も違うことに、いまさらながら納得していなくて「え? 本当に三十八?」としつこく聞いてきた。自分でも自信がなくなったので、スマホについている電卓機能を用いて、わざわざ計算までしてみたほどだった。
正直なところ実年齢と、体力的な衰えと、精神年齢のみっつが、まったく噛み合わないので「はて、今自分は何歳だったっけ?」と分からなくなるのだろう。精神的には若いというか、むしろ少年のような好奇心の夫だけれど、身体は結構くたびれている。ここ最近でも、やれ腰が痛いだの、胃が痛いだのと身体の不調を訴えてくる。釣りにはいくけれど、これといった運動もしていないので、身体の機能は実年齢よりも歳をとっているのだろう。まあ、身体の衰えに関しては、夫のことばかりは言えないのだけれども。
女の人は三十代のあいだ、ほとんどずうっと「厄年」である。わたしは2018年は「後厄」で、来年になればようやく、長年続いた厄年から解放される。ようやくだ、と思っていたのだけれど、そう簡単にさようならできない。
どうやら夫が2019年に「前厄」となるらしい。そのあとには男の大厄が待ち構えているのだ。
歳を重ねると、みんな平等に訪れるものなのだから、それほど怖がる必要もないはずだ。けれども、どことなく「厄年」に対して構えてしまう、というか、なにか悪いことが起きなければいいなあという思いが、湖の底に沈んだ石ころのように、心の奥底でしずかに転がっている。
厄年だろうが、厄年じゃなかろうが、いいことも悪いことも起きる。それはあたりまえのことだ。「厄年だから」と、何かにつけて紐づけようとするのはあまり意味がないとも理解している。いろいろな変わり目がやってくる年頃になったんだと、静かに腹をくくるしかないのだろう。
こうした会話の後に、夫に「ちひろはオレより二歳も年下なのに、すごく大人っぽいよね」としみじみした口調で言っていた。四十歳と三十八歳の、もうい加減人生の後半戦ともいえる年齢の二人なのに、いまさら「大人っぽい」といわれて、笑ってしまった。
何かしら問題は起こるだろうけれど、2019年からはじまる夫の厄年なんて、笑い飛ばしてやるつもりだ。
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