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極楽浄土にいる鳥は、どんな言葉をはなすだろうか?

極楽浄土はどんな場所かなんて、これまで気にかけたことなかった。

「死んだら極楽か地獄のどちらかにいく」というのが多くの日本人の考えていることだろう。地獄の沙汰は金次第、だなんてことわざもある。


5月のはじめに、父の百箇日法要があった。その法要にはお坊さんに来ていただいて、お仏壇の前で読経してもらった。

わたしの実家は浄土真宗を信仰している。もともと熱心な信者、というわけではない。父方の祖父が亡くなってから、父は毎日お仏壇に「正信偈」というお経をとなえていた。

お経を唱えるという行為は、家族にも半強制的に推進された。そのため、わたしは小学生のころから夕方になれば毎日お経を読まなくちゃいけなかった。はっきり言ってめんどくさかった。ひとり暮らしをしていた時期はお経は読まなくてよかった。けれど、実家に帰ると「お経を読む」のは毎日の生活に組み込まれている習慣だった。

ただ、かなりイヤイヤ読んでいても、毎日声に出していれば暗記してしまうらしい。何の役にもたたないけれど、わたしは「正信偈」というお経をうろ覚えながらも暗記している。もっとも暗唱はできるけれど、口ずさむようなことはない。


百箇日法要は、この「正信偈」というお経のほかに「仏説 阿弥陀経」というお経があって、それをお坊さんが唱えていた。

母も姉もわたしも、「仏説 阿弥陀経」は暗唱できない。経本(お経がかかれている本)を一冊手にもって、お坊さんと一緒に唱える、または終わるまで待つ、という時間を過ごすことになった。

これまで、お経が読まれている時間は、「長い……。早く終わってほしい」というのが正直な気持ちだった。これは、亡くなった人をぞんざいに扱っているとか、そういう気持ちではまったくない。

単純に「いつ終わるのか、分からない」のがお経をつまらないと思わせてしまう要因なのだろう。また、「何を言っているかわからない」というのも、問題だと思う。

今回、父の百箇日法要のとき、経本が手元にあったので「なにが書かれているんだろう?」と、気になる箇所があった。お坊さんの読経はとりあえず聞き流すことにして、ぺらぺらとめっくてみた。「集中してへん!」と、亡き父に怒られるかもしれないが、それは謝る。

というのも、お経のなかに鳥の種類がいくつか出てくる。実在する鳥もいれば、想像上の鳥もい。何が書かれているのか気になって、読経どころではなくなってしまった。

白鵠、孔雀、鸚鵡、舎利、迦陵頻伽、共命鳥。

白鵠とは白鳥とか、コウノトリにもたとえられる水鳥のこと。
孔雀(くじゃく)、鸚鵡(オウム)は、わかりやすい。舎利(しゃり)はなんだろう? と後で調べるとモズなどの鳥であることが判明。

迦陵頻伽(かりょうびんが)は美しい声で鳴くという仏教における想像上の生き物。上半身は人、下半身が鳥。(wiki参照)

共命鳥(ぐみょうちょう)も想像上の鳥。身体は一つなのに、頭が二つに分かれている生物。けっこうややこしい生物で、簡単に説明できない……。

こういった鳥が極楽にいて、あれこれさえずりながら、悟りをみちびくための修行の教えを説いてくれるのだという。法要が終わって、お坊さんがかえられてから、気になったことを、いろいろググって調べてしまった。

いつもなら、だいたい20分くらい読んでいて「あーいつ終わるんやろ。何を言うてはるかまったくわからん。漢字ばっかり書いてあるし」くらいにしか思っていなかったお経も、すこし見方を変えれば「ほほう。極楽浄土には孔雀がいるんか」と興味深い読み物になった。

極楽浄土にいるオウムと仲良くなれば、もしかしたら言葉を覚えてくれるかもしれない。ありがたい教えを説いている鳥たちに変な言葉を覚えさせないでください! と張り紙されているかもしれない。

なんとなく、極楽浄土は楽しそうだけど、鳥たちはわりと縄張り争いとかするし、けっこう騒がしそうな気もする。フンもするだろうし。みんな当番で掃除するのだろうか。

わたしは悟りをひらかなくっていいし、極楽には行かなくてもいいけれど、鳥の世話係は楽しそうだなあと、ぼんやり考えている。

何が書かれているか分からないお経でも、意味が分かればおもしろい。すくなくとも、読経中に足は、しびれるだろうけど「あー、はやくおわらんかな」と思うヒマは、なくなりそうだ。



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