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ウソは私にオトシマエを要求する。


他人に対して言葉でウソをつき、それがウソだとバレなければ「見破られなくてよかった」とほっとする。
当たり前のようにそうだと思っていた。
だけど、もしそうであるならば、ウソをついてももっと落ち着いた気分になれるだろうし、ためらわずに人前で何度でも言えるはずなのに、もやもやとして気分は晴れないし、この口からもう二度と言いたくない。
なぜだろう?
他人に向かって言ったことなのに言った自分が後悔している。
ということは、ウソというものはバレなきゃほっとするような性質のものじゃないんじゃないか?
何年も考えた。そして、こう思うようになった。「逆さまに見ていたのだ!」

言葉「で」ウソをつくのではなく、言葉「に」ウソをついているのだ。
他人に対してウソをつくのではなく、自分に対してウソをついているのだ。
ウソをついて逃れられたのではなく、ウソをついて縛られるようになったのだ。

自分の中から出ていく言葉が自分の中の本当に出したいものであればいいのだけれど、それをゆがめて(これが「ウソ」)出してしまうから、ゆがめた自分が無理をしているし苦しいことをやっている。
 つまり、自分という者は二人いるということなのだろう。
ウソをついてしまう自分と本当はウソをつきたくない自分。これが一致しなくなるから苦しいのだ! 自分が自分を不一致にさせているなんて、どれほどひどい自分なのだ! 
自分を、自分の本心ではない言葉で縛り付けるなんて、自分が嫌になるに決まっている。だから楽に逃れられる方向へ進むつもりが苦しむ方向へ進んでしまうのだ。その分岐点に「ウソ」というものが用意されている。
必要なウソも確かにある。それは、自分が縛られて不自由になって苦しんでも今ここでウソをついておくしかない、という状況の場合だ。それもまた誰にでもある場面だ。人生なんて思い通りでもなく、美しいことだけ選べず、スマートにも進まない。多彩って、そういうことだ。

言葉にウソをつきそれで自分を縛り苦しむ。ウソの構造はきっとそうなんだろうな。
でも、そう考えたからといって、ウソをつかなくなったわけではない。
話が弾まない人から誘われても「先約があって」と断る。
昔言っておけばウソではなかったのに「中学の頃から美人だったよね」と今頃、同窓会で言う。
知り合いが立候補してるからぜひ当選させてくださいと電話がかかってくると、「承知しました」と承知していないことを平気で言う。
でも、それほど心は痛まない。
一方で、封じ込めていたウソが突然思い起こされてうしろめたくなることがある。
時間がたったウソは、かさぶたのように固まって、“傷”という「思い出」になるのだろうか? 持ち抱え続けてみないことには分からないけれど。
ああ! そうか。その持ち抱える長い時間がウソをついた瞬間に背負わされるということか! 
よかった、ウソは私に「忘れさせない」というオトシマエを突き付けていたのだ!
 
 

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