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「生老病死」の主体。

全国的に病院にはお年寄りの患者が多い。「あの人、最近見かけないね?」「具合でも悪いんじゃないかね?」ツッコミを入れたくなる会話がとてもナチュラルに交わされている。

誰から聞いたのかも忘れてしまったが、こういう話がある。

その村の病院は3階建てで、一番上が入院者専用、2階が診察専用、そして1階は多目的フロアのようにガランとしている。

その1階の片隅にはテーブルがあって、ぽつぽつと野菜が置かれている。「ご自由にお持ち帰りください」と書かれた札がある。診察に来たおじいちゃんやおばあちゃんが、自分の畑で収穫して食べきれない野菜を診察のついでに持ってきて置いていくのだ。自分はそのまま2階へ上がっていく。

帰りにテーブルの前を通ると、持ってきた野菜がなくなっている。誰かが持って行ってくれた! 年を取っても自分が認められたような気がする。とても気分がいい。「どんな薬よりも、それが元気になる理由です」と地元の医者が言っているそうだ。

この話を聞いたとき、素晴らしい“仕掛け”だと感じた。モチベーションや日常的な活力を取り戻させようと、そのような三階構造にしたのか? それとも、野菜だけにまさに偶然の“産物”なのか? 

いずれにしても、「受け身の医療」のほかにも自分で健康な心と体に改善していく方法はあるのだと知らされる。集会所のように病院でおしゃべりするのも、その一つなのかもしれない。

私たちは「専門」というものに弱い。自分にない専門性を極度に崇めたりすることがある。「専門」=「正解」というニュアンスで捉えている人も少なくない。正解は一つ、とも刷り込まれている。だから専門家に丸投げしていれば大丈夫だと考え、安心してしまう。むしろ専門家の邪魔をしてはいけない、私は素人なのだから、と考える。それが自分のことであっても。

だけど、この“病院野菜”のように、専門家のフロアではない市民フロアのところで生きるエネルギーを満タンにしていく人たちがいる。自分たちも人に与えられる何かを持っているんじゃないか? と思えてくる。“2階”の専門家の知見や視点とは違うけれど、自分たちがお互いに与え、頂くことができる“1階”の医療。医療と堅苦しく呼ぶ必要もない、関係性の中での溶かし合い方を私たちは持っている。それなのに、専門性だけが解決の手段だと見誤っていないか?

面白い構造をした病院だと思う。

畑と地続きの1階には市民の広場があり、野菜が持っていかれるたびにニコニコしてしまう。

2階の専門知識エリアは畑のプロには太刀打ちできない世界で、決して明るくハッピーな場所ではない。

3階になると、毎日が苦痛で、早く畑に帰りたいと願ってしまう。私たちは地べたから離れるほど苦痛になっていくようだ。

もう少し想像してみる。もし、ここに“4階”というものがあったとしたら、それは何だろうか?

おそらく亡くなった後の居場所だ。そんなもの病院ではないし、同じ建物の中に存在するはずもないということは理解できる。

だけど、私たちの現実世界では、地に立って生きているだけでなく、死者を弔ったり祀ったりもする。そこも私たちの「生」の一部としてある。“3階”で終わりではないのだ。“1階”から“4階”を別の言い方で言うと「生・老・病・死」となるのかもしれない。

現代では、“2階”と“3階”が専門性に預けられている。それが当たり前だとされている。「老」と「病」は医者に診てもらい従うしかないものだ、と。

だが、“1階”(関係性を発揮する「生」という場)でも、“4階”(祈願や奉納や供養が行われる「死」という場)でも、私たちは主体性を失ってはいない。

専門性は活用すべきものではあるが、活用する主体は“1階”から“4階”まですべて自分だ。それを忘れると「野菜をもらってくれて嬉しい」という回復力など見向きもしなくなる。それどころか、“1階”なんかつまらない場所だ、と言い出してしまいそうだ。

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