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ありのままの自分を正視できないのは、自分だけなのかもしれない。

5つ嫌な事があっても、
5ついい事があれば、普通の日。

なのに、
9ついい事があっても、
たった1つの嫌な事ばかり考えている。

2年前の私は、そんな事を思っていたらしい。
そして、未だにそうだったりする。

終わってから、
ああすればよかった
こうすればよかった
と、悶々としていた。

結局、人から高く評価されたい
という自分の欲が最優先で、
実際に役に立つことをしたのか、とか、
相手の気持ちを汲み取って、
やれた事はあったのか、とか、
そういう所にまで気が回らない。

自分を高く見せることにしか、興味がない。
それは、
本当の自分を知られたくないんだろうな。

ありのままの自分で生きる。
過去に囚われず、未来に目を向ける。

なんて言いながら、
2年前と同じことをやっている。

やってしまった事が、自分なんだよね。

私としては認めたくないような人間が、
リアルな私。

恥じたり、後悔したくなるような
ダメ人間だと思っている。本音では。

けれど、
本当はできる人間だと信じてもいる?

どっちが本音なんだろう。

結局、ありのままの自分を見ているのは、
私以外の人々なんだよね。

もちろん、
その人の主観でジャッジされてはいるのだけれど、
私は「見られたい自分」を繕うのに精一杯。

なのに、相手には見られたい自分と共に、
見られたくない自分もガッツリ伝わっている。

なら、人に見られたい自分を演じる理由って、
なんだろう?
誰のためなんだろう?

相手から好かれるため、と思い込んでいたけれど、
どう演じようと、見せたくない自分はダダ漏れている。

相手からの評価が本当の目的ではないなら、なぜ?

私自身のプライドを守るためでしかないのかな?

守りたいのは、嫌われた過去かな?
嫌った過去だろうか?

過去の何かがキッカケで、
リアルな私を恥じるようになっている。

ありのままの自分を正視できないのは、
世界で私だけなんだな。

私は、ありのままの自分の1を見て、
残りの9まで否定している。

9割の自分は、なにを思っているのだろう。

完璧主義が、
私の人生を不幸っぽくさせている。

ぽいだけ、なんだけど。

私の人生が不幸かどうかは、
私の主観でしかないから。

残り9の自分が、
人生をどう思っているのか、私は知らない。

良くも悪くもない、が無意識の大多数かな?

感じている事が、未来を創るのなら、
悩んでいる時間以外の私は、
案外、満足しているんじゃないかな。

意識していない時まで、
自分にダメ出ししていたら、
とっくに人生終わってる。

無意識が満足していているなら、
わざわざ悩まない限りは、幸せなのかな?

悩んでいる時間を減らす。
楽しいことに目を向ける。

こうありたい自分があるから、
それ以外の自分を認められないなら、
一旦、その世界観から自由になってみたら?

引力を断ち切って、無重力になって、
理屈で固められた心を緩めてみよっかな?

怖かったのは、それなのかな?

構築している世界を、手放すこと。

価値観なんて小さなものではなく、
自我のために作り上げた世界観そのものを
無かったことにしてみる。

自我のいないゆるい世界にぷかぷか浮いて、
それぞれの想いで満ちた無意識に会って、
案外、幸せそうだな、とか
私の人生を楽しんでいるんだな、とか
満足してくれてるんだな、とか
自分以外になろうとしなくていいんだな、とか
悩んでいる自我が不幸の元だったんだな、とか
それぞれの意識に気づくこと。

無意識の私は、概ね幸せなのかもしれない。

自我がピックアップしなければ、
案外、不幸じゃないのかもしれない。

過去の不幸ではなく、
未来の可能性に目を向ける事ができたら、
自我の私でいる時も、幸せを感じられるのかも。

世界観を創る楽しさにハマって、
幸福を感じることを後回しにしていたのかな。

私のプライオリティは、幸福であること。

内心の自由
健康、暮らし

それらは、
私と世界が幸せになるために設定した価値観なので、
世界観が不幸を呼んでは、ダメだ。

自己探究とか、自己実現は、
幸せというベースがあってこそです。

なりたい自分が私自身を縛ったら、ダメなんだ。

私の幸せは、可能性の拡大。
そのために、自由と対等と個性を極めること。

私自身が作り上げた世界観からも、
自由でいなければならないってことなんだ。

うまく言葉で表現できないけれど、
私が見ている世界から、自我を解放してゆきたい。

fumori

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