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問題は、私が作り出している。

全ての価値観は、自分以外から与えられたもの。
自分にとってメリットがあるから、採用している。

私の価値観は、欲で出来ている。

…らしい。不本意ながら。


自力で生きられない子供は、
家族や社会の価値観を受け入れるしかない。

まったくもって凶暴な洗脳ではないか!

と、憤っていたけれど、
より良い待遇を得るためでもあったんだよね。

子供のサバイバル能力は、格別だもの。
純粋無垢な子供じゃなかった私にはわかる。

生きやすい環境を整えるために、
意に沿わない価値観を受け入れた。

我が家では、いい子ポジションは埋まっていたから、
道化や問題児としてハケ口にされることを選んだ。
その役割を演じることで、あの家に存在することができた。

ありのままの私には、ニーズがなかったんだよね。

なので、どんな価値観であれ、
自分で選んで、採用したもの。

本当かどうかより、
それを前提とする、と決める。
そうすれば、今ある不要な価値観は、簡単に手放せる。

そう思ったんだけどね。そうでもないんだよね。

手放せない価値観に、理屈は通じない。
感情的な執着があるから手放せないので、
感情を昇華しない限り、抱え込むしかないのです。

誰かの言動にイラッとしたり、
予想外の現実にがったりするのは、
感情的に執着している価値観があるから。

それを、自分にとって
都合がいいか、悪いかで、判断しているだけ。
その基準が、価値観。

なので、ネガティブな現実って、
自分に価値観に合わない出来事ということ。

なら、ネガティブな感情って、単なるサイン。

価値観は守らなければならないもの。
一貫性がなければならないもの。
私の正しさを証明するもの。

その前提が間違いで、
価値観に合わない現実を否定したかっただけ。

現実を、今ある価値観に合わせるために、
他者を批難したり、問題点を責めたりする。
もしくは、
自分の力不足だったと、自責する。

辛い現実って、
自分が採用した価値観の正しさを
守りたいだけなのかも。

ニュートラルな現実を、
偏った価値観でジャッジして、
感情を増幅させて、苦しんで、
私は何がしたいんだろう?

もちろん、本能的な不快感とか、危機感とか、
そういうフィジカルなネガティブは別と思うけど、
現実を批難したくなる時って、
価値観を守りたい時なのかもしれない。

困った出来事が起きたら、
どう対処するか決めればいいだけなのに、
現実を問題視して、対処しないことで、
価値観を守ろうとする。

なんて後ろ向きで、保守的なんだろう。

価値観に従って生きていた方が楽なんだろうな。
実際、対処せずに済むもんね。


人生は、選択だ。

けれど、選ばされているのは、
現実ではないのかもしれない。

現実を、承認するか? 否認するか?
今ある私の価値観を、変えるか? 変えないか?

突きつけられているのは、私のスタンス。信念。意識。

問われているのは、私の哲学みたいなもの。たぶん。

 fumori 

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