見出し画像

望まない現実は、私のニーズでできている。

私は表現者になりたかった。
その前は、何かを作り出す人。

けれど、私はそちら側ではなかった。
作り出されたものを、愛でる側だ。

美しいね。使いやすいね。素敵だね。

そう言って、クリエーターを敬い、讃え、
彼らの作品に感動し、愛でて、満足する。

消費を生み出す側ではなく、
消費する側なんだと思い至った。

ガッカリしたけれど、気は楽になった。

作り出したいものなどなく、
作り出せるものもないのに、
なぜか創造する側にならねば、
と追い立てられていた。

私がなりたい自分は、常に自分以外の誰かだった。

それが成長とか、向上心だと思っていたけれど、
願っていたのは、私以外になって愛されることだった。

成長したかったわけではなかったのですよ。
ただ、愛されたかっただけ。

今のままでは愛されないから。

承認欲求が薄れても尚、自己実現とは、
誰かを幸せにできるなにかを提供すること
だと思い込んでいたのだけれど、
私が実現したい自分って、
享受する側なのだ。たぶん。


頼りにされたいのは、なぜだろう?

その問いによって、
自分がクリエイター側ではないことに気付かされた。

私の中では、
頼りにされることが、愛されることになっている。

私は愛されていない。
だから、私は頼りにされない。

人を頼りにする側の私は、
父には愛されるけれど、
母からは愛されない。

甘えて、助けてもらってばかりだから、愛されない。
だから、頼りにされる自分になりたかった?
母からも愛される自分になるために?

いや、むしろ、愛されてない?

私の思う愛とは違うけれど、
毛嫌いしている人を、助けたりする?

いや、頼れば母が目を向けてくれるから、
敢えて頼っていたのかも??

そう考えたら、世界は反転する。

人に頼ることが出来るということは、
目にかけてもらえる環境を生きてこれたということで、
それって、とんでもなく恵まれていたんじゃなかろうか?

今までは、短所としか思えなかったけれど、
相手を信頼しているから頼れる訳で、
そんな私でいられるのは、そんな環境で育ったからで、
私の信頼に応えてくれる母がいたから。
そして、
両親が周囲と信頼関係を築いていたから。

なら、同調圧力ばかりの村社会によって、
私は守られてきたのかな。

子供の私にとっては、
あまり良い両親ではなかったし、
まるで小姑ばかりかと言いたくなるような
口うるさい村社会が大嫌いだったけれど、
半世紀を過ぎても、人に頼ることができるのは、
味方になってくれる人が多かったからで、
それは、幼い私が、無自覚に信頼する人々の中で
育てられたからかもしれません。

田舎者が善良と思われがちなのは、
強烈な縛りのある環境と引き換えに、
信頼できる社会を与えられているからなのかな。

現実が理不尽だと思っても、
世の中を疑うという選択肢がなかったのも、
信頼できる社会を知っていたから。
与えられてきたから。

それを手放せなかったのは、
信頼をベースに生きることが、
私には心地よいから?

執着していたから、苦しかったけれど、
その苦しみは、社会は信頼できるもの
という前提が作り出していた。

そもそもが恵まれていたから、
不満だったのかもしれない。


明日の飯にも困っていたら、
どうやって食料を手に入れるかしか考えられない。

屋根がなければ、
雨風を凌ぐ何かを探さなければならない。

作りたい。表現したい。
なのに、何をしたらいいかわからない。
贅沢者の戯言?

懐は寒いけれど、豊かなんだよね。私の人生は。
人生を選ぶ自由に溢れている。

望む人生とは違うけれど、
豊かな人生ではあったのかも。

仕事が続かないことを責めてきたけれど、
都度、興味があることを選ぶことができた。

優秀ではなかったけれど、
社会に貢献できるレベルではなかったけれど、
自分なりには頑張ってきた。

飽きっぽさは治らないけれど、
代わりに、好奇心は満たされた。

この望まない人生は、
私のニーズで、できている。

社会的な成功を望みながら、
意図していたのは、
自由で余裕のある人生。
豊かで恵まれた人生。

お金ではなく、時間とか、心とか。

頼ることができる世界を選んでいるのは、
頼られたら今ある自由が奪われるから?

頼られない自分でいた方が、
メリットが多いのかも。

仕事に飽きてしまえるのは、
選ばなければ働くことができると思うから。

一つのことだけやっているのは、
性に合わないんだな。残念ながら。

思考的には違う人生を生きたかったし、
社会的にはダメ人間だし、
一つのことを極める職人っぽい人になりたかった。

それもこれも、やりたいことに出会っていないから
だと思っていたけれど、どうなんだろうね。

やりたいことでも飽きてしまうのかもしれない。

飽きてしまったら、そっちに気を取られてしまう。
思考は、続けなければと自分を縛るから、
益々嫌になってゆく。

工夫して取り組むことが、苦手なんだろうな。
全然、クリエイティブじゃないじゃん。

うん。私は、退屈しやすいタイプ。

クリエイティブでないので、
一定方向からしか現実を認識できない。

なので、飽きる前提で考えてみよう。

慣れて、好奇心が薄れてきたら、視点を変える。
これまでとは違うもう一方を考える。

現実には、無数の解釈がある。

そして、今選んでいる対局には、
必ずもう一つの価値観がある。

現実を、二つの価値観で眺める。
自分と現実に距離を置く。

今、出来ていることと、
それらしい理由づけをして、避けていること。

やりたいこと以外を、
私は無意識に避けているのかな。

やりたいことに慣れたら、
やりたくないことをしなければならないから、
飽きたと思うようにしているのかな?

私がやりたくないことって?

責任を取らされる。
人を指導したり、纏める立場になる。
陰口を叩かれる。

仕事を頑張っている人に対して、
反抗する人々。

嫉妬が凄まじかった。
関わり合いたくなかったんだよね。

あ。それだ。

私は、職場を信頼していなかったし、
深入りしたくなかったんだわ。

嫌なことを避けて、
仕事とも、人とも向き合えずにいた。

仕事を作業と思っていたから、
効率よくやって、終わったら、
さっさと帰りたかった。

仕事を楽しめなくなったから、
早く帰ることが楽しみになった。

仕事したくなかったんだな。本当に。
信頼できない世界が、不安で仕方がなかった。

問題は、仕事ではなく、信頼できなかったこと。
頑張っていれば、
自分は仕事ができると思ってやっていると噂される。
心を開けば、面白おかしく言いふらされる。

心理的安全性がなかった。
味方を作るという知恵もなかった。
派閥って、大事だったんだな。

視点を変えたら、あの職場でも
飽きない工夫が出来たかだろうか?

今のところは、無理だけど。

fumori 

この記事が参加している募集

#スキしてみて

529,975件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?