私の視点は、我が身可愛さで溢れている。

自己肯定感を高めるチャレンジを始めた途端、自己否定さえしていなければ高くなくていいのかも、なんてことを思い始めています。
チャレンジ14日目。

根底に自己否定があると、同じ現実でも印象が悪くなります。

感じの良くない店員さんに出会ったら、何か悪いことしたかな、と不安になったり、何かあった時、過去に原因を探したり、ちょっとしたミスにも、理由をつけて、納得したがったり…

気分が良ければ、「やらかしてんな、私」で、済む話なのに、原因や理由がなければ落ち着かなくなる。何もしなくても大丈夫と思えなくなる。それが、自己否定の恐るべきパワー。

自己否定が標準装備されていると、目に見える全てを疑うことになります。なんでことのない現実でも疑ってみないと、安心できないから。

現実に嫌な印象が増えてゆき、不快な感情のフォローで人生が手一杯。運良くポジティブな出来事がやって来るまでは、ネガティブな現実を生き続けることになります。ひたすら辛い。

大したことのない現実でも、感じられる限りネガティブに捉える。
それが、自己否定の能力だとしたら、自己肯定感が高ければ、大凡の現実はポジティブに受け取れるはずです。


自己肯定感が高いということは、今ある現実も、今日の自分自身にも納得している状態。何も成果を上げられなかった一日でも、無事に一日を終えられたことに目が向くというか。

昨日を後悔していれば、今日も良くないことが起きるかもしれない、と疑うかもしれないけれど、色々あったけれど、昨日はなんとかなった。なら、今日もどうにかなるっしょ。むしろ、ツイていなかった分、今日はいいことあるかもしれない。

ツイていない同じ昨日を過ごしても、今日はよくなる気がする、とナチュラルに思える予感みたいなもの。それが、自己肯定感。

この世界には、同量のネガティブとポジティブが存在します。
一つの価値観には、必ず二つの意味があります。

同じ現実でも、気分によって、目につく現実は違っています。
自己否定があれば、どんな現実でもネガティブな意味を見出そうとするし、自己肯定感があれば、ポジティブなことに目が向きます。

なので、自己肯定感さえ高くキープできれば、どんな一日でも、ほぼ好日にすることができる。同じ現実でも、喜びや楽しさを見出せるようになるから。


なのに、自己肯定感はあればいい。
そう思うようになったのは、たぶん、自己信頼が増したから。大幅に。

凝り固まった固定概念を手放しまくっていたら、頼れる自分までいなくなってしまい、ふにゃふにゃになっていたけれど、やっと相棒が見つかりました。絶対に裏切らない最強の味方です。

自我は、何がなんでも私を守る。
そのためになら、手段を選ばない。

はい。自我でした。

まぁ、自我が強いとトラブルが起きるので、現実的には良くはないんですけれど、ずっとなくそうとしてきて、未だになくなっていないということは、居座っている自我とは、死ぬまでのお付き合いになりそうです。

望んでいなくても、そんな自我と常に一緒にいる。ということは、無意識の状態でも、私を勝手に守り倒してくださるわけですよ。

どれほど客観視しても、私の視点は、我が身可愛さで溢れているので。

その自覚を忘れなければ、自我ほど心強い味方はいないのかもしれない。保身のために心を砕かなくても、勝手にガードしてくれるから。

コントロールされまくりだったので、自我に頼るのはどうかと思うし、よくない方の自分を信頼するなんて、不思議なのだけれど、そもそも善人の自分って素じゃなかった。誰かに喜ばれる自分でした。

もちろん、お人好しなくらい親切な自分も存在するけれど、あくまでも余裕のある時。いざとなった時、相手のために、ボロボロになるまで自分を犠牲にできますか?

否です。自分、大事。

最終的に、私は自分を優先してしまう。そんな利己的な人間です。だからこそ、ガードを下げて無茶をしても、大丈夫。全力を出し切っても、自己保身の自我動力は、別腹です。

疑心暗鬼になって、自分を守る必要はもうないのかもしれない。
なら、少しは周囲のことを考えられるかな。余裕があれば、いいところだって目につくでしょうし…って、あれ?

なんだかこれって、自己肯定感、高くない?

敵対していた自我を信頼してみたら、自己肯定感が上がったようです。

ネガティブな思考があると、自己肯定感を高めることは難しいと思ってます。楽天的に物事を見るということは、理詰めを放棄することだから。否定や恐怖があると、理論武装を手放そうなんて思えません。

なので、先に信頼感を高めてみるのは、よい方法かも。
ネガティブで満たされていると、抜け出すためによい自分になろうとしてしまうけれど、それは、強い本質ではない気がします。

裏切らない自分は、いい自分でないかもしれません。けれど、長年、良くなろうと思っても変えることのできなかった自分は、最強の味方になりえます。

自分の中に絶対を見出せたこと。
それは、迷惑な部類の私だけれど、絶対に裏切らない最強の味方です。

保身に走る自我の存在を肯定できたのかな。とっくに認めたつもりだったけれど、やっぱり嫌っていたみたい。現実のトラブルは置いておいて、守って欲しかったのは、私。そう願っておきながら、邪険にし過ぎました。ごめんなさい。

それでも、いつかは信頼できる善良な個性に出会えるといいな。
可能なら、全部の私を頼りにできるといいな。

 fumori 


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