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「ト音記号殺し」

【第一発見者の証言 遺体発見時の状況について】

 ……あれはお嬢様が譜面を開かれる五分程前だったでしょうか。僕はいつもの場所で待機してました。ええ、そうです。僕はシューベルトのアヴェ・マリアの最初のヘ音記号ですから、一番上の大譜表の左端の下段に。われわれは人間の前では動けませんから、余裕を持った出勤は当然でしょう? ……一部の例外はいますが。それはさておき、突如、頭に重い衝撃を感じました。僕の額に《何か》が当たったんです。ぼん、と鈍い音がしました。
 最初はト音記号の奴がぶつかったんだと思いました。あいつはいつもタイムカードをギリギリに押して譜面に駆け込んでくるんです。今日こそは文句を言ってやろうと思い、上を見上げました……が、奴はいないようです。譜面はまだ閉じられていたので暗くてよく見えませんでしたが、代わりに上段の五線譜には黒くしなやかな帯状のものが掛かっていました。僕の額に当たったのは、その帯の端に付いた黒く大きな球のようなものです。それがト音記号の尾だと理解するまで時間はかかりませんでした。奴は……奴の身体は、無残にも引き伸ばされ五線譜に吊り下げられていたんです……

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「物音がしたとき、何故振り返らなかったんだ?」
 私はフラットたちに問いかけた。
「いつものことだと思ったから、ね……」
 ふたりのフラットは互いに目を合わせ、戸惑った様子だ。責めるように聞こえ、委縮させてしまったのかもしれない。
「……ハ音記号、ちょっと」そばで見ていたピアニッシモが口をはさんだ。
「私も、ト音記号はいつも時間直前に騒々しく出勤してたから気にしなかったの。だから左に振り返らなかった」
 私は大きくため息をついた。皆が暗闇にいた以上、各々が自身の待機場所にいたことの証明も難しい。
「……もう一度、現場を調べる」
 私がそう言い歩き出すと、ピアニッシモがたどたどしくついてきた。

 殺害現場の第五線〔五線譜の一番上の線のこと〕は大きく凹んでいた。ト音記号の遺体があった部分に圧が加わり、曲がってしまったのだろう。五線譜はわれわれの身体を支えられるほど十分な強度を持つ。ひとりの体重が局所的にでも載っただけで、これほど曲がるはずはない。
「犯人は大柄で力の強い者なのかな。ト音記号の頭頂部を第五線に引っ掛けて、彼の両端を同時に引っ張って殺害したってことだから」
 ピアニッシモが上を見上げながら言った。
「複数犯ならば力の強さは関係なさそうだがな。あるいは……」
 私は下の五線譜で丸くうずくまっているヘ音記号に目をやった。重力を使ったのなら、か弱い者でも十分に犯行は可能だろう。ヘ音記号が私の視線に気づき伏し目がちに見上げる。
「な、なんだハ音記号……? ぼ、僕を疑っているのか?」
「君がずっと定位置で待機していたことを証明できる者はいるか?」
「と、隣のフラットと少し話してたよ……」
「ずっとじゃないだろう。君はト音記号の真下に居たんだ。飛び上がって彼の身体の両端を持って吊り下げるくらい一瞬で済む」
 ヘ音記号は逆上し跳ね上がった。
「ふふ、ふざけるな! 確かに僕は奴に嫉妬する気持ちはあった……でもそれはお前も同じだろう、ハ音記号? 奴は音楽の代名詞で美形の人気者で……僕らは『音楽』とキーボードで打ってみても変換予測に出てこないし記号すら用意されていない日陰者だ。待てよ……ハ音記号、お前、この楽譜上に存在しないはずだよな? ト音記号(高音部記号)とヘ音記号(低音部記号)の間に位置するハ音記号(中音部記号)はフットワークも軽い〔ハ音記号は音域により表記される位置が良く変わる〕。お前、他のページから移ってきて殺したんじゃないのか!
 周囲の記号たちが一斉に振り向きざわめく。ピアニッシモは身体の右半分をよじらせるような無理のある姿勢でおろおろしていた。

 私が探偵業を営んでいるのは出番が少ないが故、常に第三者として捜査に携われるからだ。犯行時の私のアリバイは無い。もしこのまま疑いが晴れず逮捕されてしまっては、探偵を続けることはおろか楽譜上から永遠に追放されるやもしれぬ。どうあっても真犯人を見つけなければ……
 ふたりのフラットがこちらをちらちら見て低い声で囁きあう。私は耳を貸さず推論の構築に集中する……すると『ある人物』の挙動にふと思い至った。私はアヴェ・マリアの終止線〔曲の終わりにある五線譜上の右端の縦線〕に『その人物』を呼び出すことに決めた。

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 お嬢様は演奏後、譜面を開いたまま出かけてしまったようだ。ト音記号の異変には気付かなかったらしい。人間からすれば我々の存在など取るに足りぬものなのだろうか。斜めに降り注ぐ夕陽が譜面を黄金に染め上げる。私が呼びだした人物は譜面の右下で俯き立っていた。

「さすが、何でもお見通しだね。ハ音記号は」ピアニッシモはこちらに目を合わせず、か細い声で呟いた。「合わせるの結構練習したんだけどな」
 pp(ピアニッシモ)の身体は左右に分かれ、ふたりのp(ピアノ)になった。
「私が元より君を容疑者から除外していたのはピアニッシモ(とても弱い)ひとりの力では犯行不可能だと思っていたからだ。ただ複数犯だとすれば話は別だ……君の待機場所は上下の五線譜間の空白で、隣には誰もいないから周りに気取られずに移動できる。君が……君たちが殺したんだな」
 ふたりのピアノは互いにもたれかかるように寄り添い立っている。左側の片割れが大きく息を吸い、言った。
「小さな声では何を言ってもかき消されてしまうの。それがいくら筋の通った正しいことだとしても、ね。殊にこの音が支配する世界では尚更のこと。奴が……ト音記号が裏で何をしていたか知ってる? 姉が奴の不正を告発しようとしたためにどんな目に遭ったか……だから私たちはずっと力のない振りをして機を窺ってた」
 瓜二つの姉妹が同時に顔を上げる。
「私たちはただ声を上げただけなんだ」
 私の目には儚くも芯の通った少女たちの姿が映っていた。

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(了)
2022/1/10 挿絵を追加

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