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エリーゼのための小説明

日本の、小さな片田舎の、さらに小さな
とある地方自治体の出納課で
私は働いている。
毎日帳簿をつけるのが私の仕事である。
この仕事を長くやっていると
文字と数字の羅列から、
どんな問題が発生してどう解決したのか、
までが透けて見えることもある。
それを見る限り
いろいろ細かいトラブルや課題はあるにせよ
民たちは、おおむね平和に暮らしているようだ。

ある日、ふだん通りに帳簿をつけているとき、
私の脳裏に
古いヨーロッパの、春の野原が
幾度となく過ぎることがあった。
なんだろう?・・・このイメージは・・・?

中世のヨーロッパ?
時代も場所もはっきりしない。
なにせ、建物も人も見えないのだから。
推測さえできない。
だけど、どうしても、そこは古いヨーロッパの
どこかの野原としか思えない。

春・・・そうだな、
まだ冬の名残がかすかに残っている春先。
陽ざしは明らかに春のものなのに、風には冷たさが含まれている。
野原に生えた若々しい草花に、そんな風が吹いている。

その草の下、土の中に
古い王国の記録が埋もれている。
まるで地層のように、幾層にも積み重なって
いくつもの時代の国の記録が
つまるところ、そこに生きた人々の記録の一部が
埋まっているのである。

発掘の価値もない、小さな小さな小さな小国の
ありふれた、人間たちの営みの記録が
会計帳簿の形をとって残っている。
当たり前の日常の出来事が、
文字と数字で記録されている。

少しだけ
その記録を紐解いてみよう。

あるとき、その国は専制君主国家であった。
独裁的な国王を退けるため、若者たちが立ち上がった。
クーデターが起きたのだ。

クーデターは成功し、そのあと国王になったのは
若者たちに担ぎ出された一人の老人だった。

その老人は、元来余所者であり、
長い間専制君主だった元国王とは完全に無関係であることが
クーデターを起こした若者たちにとって好都合だったのだ。

ただ、その老人がかつて何者であったかを
誰も知らなかった。
その国に流れてくるまで、どこで何をしていたのか。
しかし、そんなことはどうでもよかった。
その国に流れ着き、その国ですでに四半世紀は過ごしていて
その間、老人は国の人々から慕われ、尊敬されていたからだ。
特に、若者たちにとっては
彼らが幼少のころからよく知っている人であり
当時の大人たちが見る、余所者を見る目で彼を見ることはなかった。
国外のことをよく知っていて、おもしろい話を聞かせてくれる
知恵深いおじさんだったのだから。

余所者が国王になるなどということは
かつては考えられないことであったが
その時ばかりはすんなりと受け入れられた。

新国王は、穏やかで、物知りで
語りがうまく、人々の心をつかむ。
彼の過去を探りたがる輩もいない。
彼の人柄もさることながら
今回に限って言えば
前国王を倒した後、ほかの誰も国王になりたがらなかった
というのが、彼の過去に誰も触れない一番の理由だったのだ。
触れてしまったら、それがきっかけで
彼が国王にふさわしくないという議論に発展する恐れがある。

実をいうと
彼の過去を知っている者が、その国に一人だけいたのだが
(それは、彼より数年後にその国にたどり着いた一人の女であった。)
彼女は決して口を割らず、何食わぬ顔で秘密を厳守し通したため
国王の死後も、誰にも知られることなく時代は変遷したのである。

ここで少し、新国王の過去の話をしよう。

彼は、若いころ、ちょっとは名の知れた大国の
ロックンローラーだった。
近隣の国まで及ぶほど一世を風靡したスターだった。

ある日、何の前触れもなくステージをドタキャンして
彼は姿をくらました。
理由もなにも告げぬまま、彼はただいなくなったのだ。

捜査の手が伸びたが、事件性はなかった。
失踪という形で彼の捜査は閉じられ
以後、次々と繰り出される新しいロックンロール・スターの誕生に
彼のことは人々から忘れられ、伝説のローラーになることもなく
彼の存在の記憶自体が消えていったのである。

そんな中、彼の一ファン(猛烈なおっかけ)であった一人の女が
彼の残した足跡――ほとんど消え入りそうな足跡をたどり
放浪の末、単独、この国に着いた。

彼を見つけた女は、飛び上がらんばかりに喜んだ。
だが彼は、彼女に小さく頷きを見せ、
瞬きにも似た微かなウインクをよこした。
彼女は黙って彼を見つめた。
彼の瞳は笑っていた。

   見つかってしまったな。
だが、お願いだから黙っていてくれ   
と、その笑みは語っていた。

OK!
と、彼女も笑みを返した。
彼女はその国に住み着き
彼については何も知らない、ただの放浪者として
受け入れられ、そこの国民になった。

誰からも悟られることのないよう
彼と二人きりで話すときでさえ
彼女は過去の話題を一切出さなかった。
壁に耳あり、障子に目ありというではないか。
国王の死後も、彼女は自分の身が骨となって朽ちるまで
秘密厳守を通した。

だから、誰も知らないのだ。
今、こうして帳簿を紐解く私のほかには、誰も。
彼の過去を。

彼が新たな国王として立ったとき、
彼は側近の財務担当に彼女を指名した。
彼女にとって財務の仕事など全くの門外漢であったが
彼の指名である。
引き受けないわけにはいかない。

その後、彼が老齢を理由に国王の座を退くまで
彼女は彼のもとで財務の仕事をした。
いわゆる経理の仕事だ。
今の私の仕事と、見えない糸で直結している・・・
と考えるのが妥当に思えてくる。

春の野原に吹く風が 向きを変えたようだ。
草のたなびきがそれと知らせる。

もうすぐ一雨きそうだ。
雨は、春を急がせるだろう。
草はさらに根を深く張り
土の中の記録は、また深く埋まる。

ロックンローラーの王がかつて得意とした曲が
土の中から湯気のように立ち上がる。

古典をアレンジした、彼独特の奏法で
どこまでも明晰に、どこまでも力強く
どこまでも優しい
あの曲が一瞬よみがえる。

かつての私の名はエリーゼだった。

いずれ、今の私が残した帳簿類の数々も
土に埋もれ、一筋の地層の中でその一部を成すのだろう。
断面を切り取り、誰かが読み解くことが
あるかもしれない。
今の私のように。
そして、その誰かは
自分の名がエリーゼだと知るだろう。
連綿と受け継がれる
エリーゼのための小説明。

心配は無用。
いかなるドラマも風化する。





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