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霧の海

 何度もなんども新しいノートの一ページ目をめくる。大抵隅の方から二、三行書いてみる。えんぴつで、タイピングで。

三日坊主どころじゃない、五分と持たない集中。意識はとびとびになり、別の本の適当なページを開く手、字面を追う目。言葉を用いて何かを語ることから距離を取るようになった。端的にいえば文章化にすることから。

自分の中で感情が言葉により過ぎていると感じたからだ。言語化以前の豊かな、幅のある心の色模様を言葉の檻に押し込んでしまっている気がした。

 紙に殴り書きにした多くの言葉。音から離れ、声と決別してただの線になる。意味は捨てきれず意味を有したいくつもの線。(発言とは自由を縛ることだ)昔の誰かの声が頭の奥から聞こえる。そう認識とは線引きして捉えること。一旦分断して、これはこう、あの人はこういう人と言った具合に。

 文章を書く習慣を離れたことで、「わからない」ことが増えた。「分からない」とは、すなわち未分化。瞬間瞬間に感じていることが、既存の言葉では捉えられない。私と私以外のその他のものが、分けられない(分けようとしない)。つまり最近は視界はクリアではなく、霧がかかっているようで目の前で起こる現象を、ただ現象として観察してる。とても漠然としている。暖かい午後の眠気をさそうあの感じ。どこかで夢の中にすぐ帰りたいと思ってる。

 絵を描いた、風景から。言葉の代わりに情景を指でなぞる。この描き方では線を引かなくて済む。遠くに見える海と空を繋ぐ。写真とも違う、もっと身体に馴染むスピードで。それに写真ほど脆くはない。いつかなぞったその山肌、季節がめぐりまた出会い直す。螺旋状の時間の中で確かに変わらないもの、しかし、変わり続けてるその存在。

 音楽を繰り返し聴く。これもまた特定の感情をなぞる。いつも同じカーブを描き同じ所を曲がる。眠っていた無数の情景が溢れ出る。何度通り過ぎた道だろう、でも毎度その細部に発見をする。

 光あたるものと、あたらないもののあいだ、あらゆる世界の幅とあいだ、そこに潜む。その密林へと向かう。そこは未分化で体系立てられていない。混然としている。そこへは誰もこないし、呼び名すら知らない。ぼんやりと淡い世界。そんな場所をそれぞれが有している。ここへは他者からの言葉はは届かない。まるで星と星の間に流れる冷たさのよう。

 久しぶりに密林を抜けだして顔を出す。光を反射して、立ってみる。この文章がいまここにあるように。お久しぶりですと、たまにこうしてエネルギーが密林から突出する。その足元では日夜、ささいな地殻変動が起こっている。時には遠くの海の底で、海底火山も噴火するし、その衝撃波は回りまわってここへも届く。

 何を書こうとノートを開いたかもう覚えていない。文体もするすると変わって行く。形には拘らない、当然型もない。雲や風のように。

と、何年経っても同じ地点にいる。またここに帰結してしまってる。言い方が変わっただけだな、細胞たちの方が顕著に入れ替わって居る。部屋に冷気が忍び込んできて、冬の陽も薄れてきたのでこの辺にしよう。分かられるのを拒み、説明を最小限にして(←ならばこの文章全ていらない)。
まだ何もわからぬ(解明されてない)霧の海の中で。

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