カタカタ人形

お題:腐ったローン

(即興小説トレーニングというサービスでランダムお題で書いた作品です)




自分が人生で借金をするなんて思わなかった。

金曜の、帰りの電車が二十二時を過ぎた、あの夜の駅のホーム。

あの"人形"を私は見た。そして、変わってしまった。





その日はいつも通り定時に業務を終え、勤怠管理ツールを開いて退社をクリックし、社用パソコンからログアウトした。日常だった。

直属の上司の和田さんが誘ってくれたので、駅前の小料理屋で食事と会話を愉しんだ。

普段は店の混雑や喧騒を避け、金曜日は仕事が終われば真っ直ぐ家に帰っていた私は、おそらく週末夜の飲食店特有のものなのであろう、独特な開放感と活気にほんの少し驚き、悪くないと感じ、微笑していた。



あの日を最後に、私は出勤していない。





和田さんと別れ、駅のホームで帰りの電車を待つ列を物色した。

細いヒールの靴を履いていたので躓かないよう、足許のコンクリートと前方と、交互に注意を払いながら歩く。

ハイヒールで点字ブロックや排水溝を運の悪い角度で踏んでしまえばどうなるか、私はよく知っていた。



どこも列が長い。もう少し歩けば短い列にたどり着けるような気がして、かなり歩いてしまった。そろそろ決めなくては。そう観念した時、六、七メートルほど先に二人しかいない短い列を見つけた。

電車が来るまであと三分ほどの居場所。でも慎重に選ぶべき自分の居場所を探す。特に楽しくないその作業を終えて心は少し軽かった。私はその列へ駆けた。ひとの目に大人げなくうつらない程度にと、気にはしながらも。



けれど、その列に並ぶことはなかった。できなかった。



赤茶けたものと黄色い、固形物と液体の中間のなにか。混ざり合い、勢いよく上から落とされたものが、異様な存在感を放ち拡がっていた。人間の吐瀉物だった。



狼狽えたが、忘れればいい。忘れるしかないのだ。それでもわたしの目は辿っていた。吐瀉物から数センチ離れた場所に、なにか重たいものを引き摺ったような、白い擦れた跡。その跡を辿っていた。



まず、落ちた合皮のベージュ色のショルダーバッグ。

そのすぐ上に視線を移動させた。



四肢をあらぬ方向に曲げた人形と、それを必死に支える女性がいた。

その人形はびくんびくんと奇妙な痙攣を不規則に繰り返しながら、立ち上がりたいのか、座りこみたいのか、自分の支える女性に何かを伝えたいのか、何をしたいのかこちらからも、おそらく介助をしている女性にも全く検討のつかない動きをしていた。





大きな塵取を持ち、駅員数人が、おそらくその人形の吐瀉物を清掃し始めたのが目の端に映った。

駅員は粛々と吐瀉物を片付け、最後に人形とその介助者を一瞥した。その目から、特になんの感情も読み取ることは出来なかった。



私はまた、人形を見た。

介助者がそれを選んだのか、人形の意思なのか、とうとう人形はホームのコンクリートに伏せっていた。

奇妙な痙攣はまだ続いており、その姿はこの世の悲しみと穢れを凝縮したもの、この世の終わりそのものだった。





その日のその後の記憶は、ない。





あの日から締め切っている窓に、更にシャッターを下ろすために久しぶりに窓を開けた。カーテンも閉めていたので気が付かなかったが、どうやら今の時刻は夕方らしい。夕陽だけが持つ暖色に、外の世界は支配されていた。時刻を確かめる習慣さえなくなっていた、そのことを知らされる出来事も、これまでなかった。

立て付けが悪く、管理も疎かにしていた埃だらけのシャッターの尖った錆で、手の甲と指を切った。私は傷口と、その付近に付着した茶色い錆を躊躇もせずに舐めた。そしてそのままベッドに潜り込む。

外に出られなくなったので、布団を干すこともなくなった。この布団の中に、もしかするともう何ヶ月も、私は籠城している。



勤務先からの着信。本社の番号からの着信。

それらがいくつか、なんて数えてもいない。

和田さんからの着信、メール。内容も忘れてしまった。



介助者の女性が人形に話しかける言葉から、あの日見た人形はアルコールを摂取しすぎたのだとわかった。

おそらく、ただのありふれた、週末の酔っ払いなのだ。

でも、私は黄泉に誘われてしまったようだ。



表情や、性別は、覚えていない。

あの人形の形相、あの駅のホームは、間違いなく、私の何かを壊し終らせるには、充分すぎた。



いつの間にか、食料も底をついてきた。でもそのこともあまり気にならない、できないのだ。

ポストは見ていない。おそらく新しい郵便物を入れる隙間もなくなったのか、最近はドアに郵便物が挟まれるようになった。

いくつかの封筒を開けてみると、クレジットカードの解約通知や、解約に伴い一括支払いの義務がある、等の請求ばかりだった。

ぼんやりと眺めたあと、私はなぜか微笑み、まるで紙吹雪を散らすかのように、部屋の中に請求書を散らした。



会社は、まだ解雇をしてこないのだろうか。それともポストの中の郵便物の中に解雇の通知でも紛れ込んでいるのかもしれない。

けれど、すぐにそれらを考えるのもやめてしまった。何がどのような結末に向かっていても、興味がなくなってしまった。



あの駅員は毎日あんな、世界の終わりを、この世の淵を見ているのに生きているのか、などと考えを巡らせたりもたまにしたが、すぐに思考が途切れた。

長く何かを思考することが、できなくなっていた。



たまに、強くノックをする音がする。

何の支払いをしていないか分からない。家賃かもしれない。その時はただ、数時間息を潜めている。ベッドから動けないのだ。

もし訪問に応じたとして、私の口から、人間が使う言葉が出るのか全く自信がなかったし、訪問者が私に伝えたい事が、そしてそれから何をすべきかが、理解できるとも思えなかった。



素肌に擦れる、少し冷たい布団の感触が、それだけがとても心地よい。衣服は重く感じて、もうずっと前から着られなくなっていた。

裸体を布団の中に埋めている時だけが、ほんの少しだけ安心できて、他のことはもう、分からない。

自分が求めているもの、どうなりたいか。何をしたいのか。そんなことも分からない。



あの週末、金曜日、和田さんとの駅前での食事。駅までは下り坂だった。下り坂はどうしても私たちを足早にさせるから、横に映る都会の街灯や夜のひかりも動き流れる。

美しく、とても、とても輝いていた。



微睡みの中、そんなことを追想しながら、死んでいけたらいい。

部屋の灯を消して目を閉じた。

サポートありがとうございます。お金は愛でもあると思いますので、もし投げるときは楽しく投げていただけると幸いです。何に使ったかは多分記事にします。