母さん

お題 絵描きの母


母さんの描く絵が好きだった。
もともと絵描きは、おやじのほうで、でもあまりに抽象的すぎて、おれにはよくわからない物体にしかみえなかった。
おやじは絵描きとして成功することより、母さんと結婚することを選んだ。
母さんは、花の絵をよく描いた。花のうしろに、必ずといって良いほど、洋風の装飾品にあふれた家具を描いた。
「これが、母さんの理想の家なの?」
中学生になって間もない頃だったか、おれはふと気になって、訊いた。
おれのうちは、狭い貧乏長屋で、これが母さんの趣味ならば、母さんはここが窮屈なのだろうと思った。
「理想っていうか、母さんの頭の中にある風景かしらね」

高校三年生のとき、おれは知らない女子に告白されて、なんとなく付き合った。ずっと見てた、かっこいいと思っていたの。そう言われた。
一応彼氏なので、彼女のバイト先に迎えに行ったりしてみた。それが、なんとなく楽しくもあったりした。
夏休み、彼女が、今日、うちに誰もいないの、と言った。おれは、ただ言葉を、そのままにきいていた。おれたちはアイスを食べて、炎天下の中涼しい場所を探していた。うちで涼む?ときかれて、そうだね、と言った。
彼女の家にいくのは初めてだった。家にあがって、俺は思った。居間。何かに、似ている。気が付いた。それは、母さんの描く洋風の家具や、壁の装飾たちだった。
彼女の部屋にあがる。彼女の部屋は、片付いた普通の子供部屋だった。よくある子供用の学習机や、プラスチックの収納用のケース、水色の水玉模様のカーテン。おれに麦茶を差し出すと、ベッドに座って、上着を脱いだ。おれは、まさか、と、そのとき初めて勘付いた。
おれは何故か、義務感に急かされながら、彼女の横に座り、キスをした。俺は、目の前の女とキスをしている。それ以外、何も感じなかった。心が、何故か荒れた。隠れて、唇を拭った自分を、遠くで白けた目をしたもうひとりの俺が見ていた。
部屋は、外よりも暑かった。彼女がおれに要求していることは解っていた。おれは自分の服を脱いだ。脱いだジーンズは、放り投げたくなって、投げた。着いたままのベルトが、音を立てた。勢いが必要だった。
彼女の服を脱がせるのは、勇気がいた。なんとなく、触りたくなかった。汗ばんだ水色のタンクトップ。その下に透けるブラジャー。身体の線が、女っぽすぎた。それは、おれをどこか、白けさせた。
彼女は息を既に荒くしていた。なんでもいいから早くやって。そう、言われている気がした。
彼女を裸にすると、おれはどうしていいか分からず、身体が硬直してしまった。ペニスは、立ち上がりかけてすらいなかった。彼女はそれを、まじまじと、見ていた。
何か、しなければいけない。どうすればいいのか、おれは経験はなくとも、知っているはずだった。でも、知らない。このときおれには、わからなかった。冷や汗が落ちるシーツを、見つめた。裸の男と女ふたり。
とりあえず。とりあえずだ。おれは時間稼ぎのために、布団に倒れこんでみた。彼女も横に倒れる。そのときおれは、開け放たれたドアの向こうの、居間を見てしまった。
青ざめた。悪い鳥肌が、立った。
おれは無言でいた。彼女が不機嫌になるのがわかった。俊敏そうな腕を、ぼうっと眺めながら、現実逃避をした。おれよりこの腕、強そうだけど。沢山の何かを、意図的に踏み躙って来た腕。そんな気がした。
「ヘタクソ」
女は俺を睨んで吐き捨てた。おれは女を睨み、それから、そうか、おれは悪いことをしたのか。おれはヘタクソだったのか、と思ってみた。それは、なんだか少し、面白かった。
服を着て、逃げるように家を出た。マザーコンプレックスではない。帰って母親の顔も、ちゃんと見ることが出来た。ただ、おれは、おれを産んでくれた母親の、純粋な心の中の景色で、好きでもなかった女と裸で触れ合うことが、とても出来なかった。いや、おれの嫌悪感を、母親が、浮き彫りにしてくれたのだ。そう思った。母親の景色が。
女は、友達におれの悪口を振りまいていた。おれのしたことが、どうしたら悪口になるのか、おれはわからなかったけれど、女が処女を早く捨てたかったということだけ、なんとなく理解した。

数年後、恋愛感情を持った女性に、告白をして付き合った。彼女の家に呼ばれ、お茶を飲んで、帰った。彼女の家には誰もいなかった。彼女はとても嬉しそうに、おれが家に来たことを喜んでくれた。自分のうちにおれがいることが、不思議で面白くて、でもとても楽しい、と言った。洋風の装飾が美しい、家だった。
彼女は絵を描いていた。引き出しから、何枚も絵を取り出して、見せてくれた。目の前で描いてもくれた。彼女は月夜の絵ばかり描いていたので、心の中にこういう風景があるの?と訊いた。彼女は、嬉しそうに頷いた。
おれのおふくろもそう言ってたよ。おふくろはこの家みたいな風景が頭の中にあるって言って、よく描いてた。彼女は、運命かもね、とふざけて笑った。
一年経って、おれは彼女の家で、彼女を抱いた。彼女の足の間からは血が出て、彼女は驚いた。おれは何も考えていなくて、そう言えば彼女が、過去にこんな経験があったら嫉妬で苦しむな、と思った。
確かとても、蒸し暑かった。母親の絵に似た部屋で、おれと彼女は裸になった。何も煩わしいことは考えていないような線を、彼女の身体は描いていた。まるで産まれたばかりの、子供のようだった。おれは涙を流して、可愛いと何度も褒め称えた。途中、おれは何度も、彼女から産まれるかのような錯覚を覚えた。彼女に抱かれているような気がした。夢の中のようだった。そして、現実だった。おれはおれを穢さずに、初めて女性と寝た。
彼女の肩にタオルケットを掛けているとき、もっと喜ばせられるようになりたいと振り返る気持ちと同時に、水色のタンクトップが脳裏をかすめた。ああ、あの時触らなくて、良かった。心の底から安堵した。彼女は、幸せだよ、とおれの名前を呼んだ。とっておいて、良かった、と、満足げに言った。彼女も自分を穢さずにここまできた功績を、密かに讃えているように思えた。
早く母さんに会わせたい。

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