片付けられない男〜借金天国〜

 おれの好きなひとは、魔法使いです。おれの部屋に、いっしょに住んでいます。おれは、片付けがとても下手くそで、目星をつけていた、ここよりもう少し家賃の安い部屋に引っ越すことも出来ずに、貯金箱の中味もろくに増えない日々を過ごしていました。そんなおれのところに彼女は、急に舞い降りて、おれを真っ正面から見つめていいました。
「自分の感情を、見ないようにしているから散らかっている、そんな部屋ね」

 もちろん、舞い降りたなんていうのは、おれがした比喩だけれど、あながち間違いでもありません。彼女は魔法使いなのだから、舞い降りることだって出来るだろう。
 その雨の休日、コンビニで、全身ずぶ濡れの彼女に出会ったのがはじまりでした。風邪を引いているのか鼻をすすっていて、おまけに高いヒールで脚を挫いて転んだのか、タイツはぼろぼろに破け、藍色のワンピースも、とても汚れていました。そんな姿で、背筋を伸ばしてのんびりと歩き、鼻歌を歌いながらジュースを選んだりしていたので、目が彼女のほうへいってしまうのはしょうがないのに、彼女はおれの視線に気がつくと、眉間に皺を寄せて首を傾げました。おまけに、舌打ちまで。でも、彼女の凛とした姿勢がなんだかおかしかったので、急いでタオルと傘を買って、彼女に渡しました。どうしてだか、彼女のことも、そんなことをしているおれ自身のことも、可愛らしくておもしろいような、そんな気持ちがして、おれはとてもにこにこしていたと思います。
 コンビニから出て、二人ですこし、散歩をしました。彼女は無表情でおれが渡した傘をひらき、でも、頬はうれしそうに、つやつやとしていた気がします。
 おれがここに彼女を泊めました。帰るところがないの、と、悲壮感もまったく漂わせずに彼女は淡々とつぶやき、それはいっそうおれを心配させましたから。いや、おれは、たぶん、心配なんかちっとも、していなかったんだろう。ただ、もっと彼女のことを知りたくて、たまらなかった。だから、そばにいたかった。まるで子供のころ、小さな洞窟のなかを探検しにいったときのように、ただ彼女に対して、わくわくしていた気がする。

 部屋にあげると、彼女はなんどもくしゃみをしたので、これはいけないと思い、彼女を深夜も営業している近くのファミレスに逃がして、十分だけ、急いで掃除をしました。窓を全開にして、荷物をロフトにあげ、掃除機をかけるだけ、だったけれど。このときおれはなぜか、いちばん大切にしていた梨愛という女優のエッチなビデオを、汚らわしいという気持ちになって真っ二つに折って、ゴミ袋に詰めました。これまで散々、息子がお世話になっていたくせに。いまとなっては、ほんの少し彼女に共通点があったかもしれない梨愛を、少しは似ているじゃないかと、彼女を基準に褒め称えてやりたい気持ちもあって、あんなことは別にしなくてもよかったんじゃないかな、とも思います。
 ファミレスに彼女をむかえにいくと、彼女はソファ席でパフェのコーンフレークを咀嚼しているところでした。おれは財布を出して会計をしに行き、ソファに座っている彼女に、エスコートさながら手を差し出してみましたが、彼女はおれの手を無表情で眺めながら自力で立ち店を出ました。おれは、ぜんぶ憶えてる。

 ふたたび彼女を部屋に招き入れると、彼女はいいました。
「まだ散らかっているわね」
ごめん、とおれは謝りましたが、彼女は怒りたいわけではないようで、確かめるような眼で、おれの汚い、住み慣れた狭い部屋をながめたあと、言いました。自分の感情を、見ないようにしているから散らかっている、そんな部屋ね。確かに、そうかもしれない。仕事はやめたいし、なんだか寂しいし、でもいっしょに居たい人がいるわけでもないし、落ち込むことは多かったし。おれが考え込んでいると、彼女はおれの目をまっすぐに見ました。なんだかくらくらしました。
「自分の気持ち、みられるようにしてあげる。魔法使いだから、できないことなんて、ないの」

 彼女はここに住み着きました。はじめの日おれは、帰るところがないなら、しばらくここにいれば、といいました。彼女は、そうねえ、と、他人事のように、なにもない天井をぼんやりみながら生返事をしたので、おれのうちに居たいと思わせてやらなきゃ、と思いました。そう思うことはなんだか、とても楽しい気分でした。職場で、褒められるようになりました。よく笑うようになったな、とか、優しくなったな、とか、言われるようになって、仕事にでかけるのがゆううつではなくなりました。魔法使いのおかげかもしれません。そうして何度も、仕事場にいって帰ってきても、彼女はいなくならず、朝とおなじ場所にすわっていました。そのたびに、おれは、歓声をあげそうになりました。そして、スーツを脱いですぐ、台所に立ちます。彼女にここにいたいと思ってもらうために、あたたかい手料理を、一生懸命つくりました。彼女はかならずのこさず食べてくれるので、きっとおいしいのだと思います。
 食べるときは、おれが勝手に、いろいろ話しかけます。たとえば。二十七でこんなアパートのワンルームに住んでるのは負けだなって、きょう榊くんに言われちまったよお。とか。
 以前のおれなら、おれってダメなのかあ、ともっと気分が暗くなっていましたが、いまはそこまで落ち込みません。もっと、よくしていけばいいだけなのです。彼女は、まっすぐにおれの目を見ていいました。
「秘密基地みたいで、わくわくして、とってもいいじゃない。わたし、こういう部屋にあこがれていたけど」
 秘密基地。秘密基地。何度も、彼女がこの部屋に与えてくれた称号を、頭のなかで唱えました。たったいま、おれのこの部屋は、秘密基地として認められた。そして、彼女に夢中なおれによってここは、外からなにをいわれようと、わくわくする秘密基地であり続けられる、無敵の部屋になったのです。
 彼女の一挙一動、一言ずつが、おれを自由に、そして力づよくしていきます。おれは、そのたびに彼女に魅入られ、だから、お話ができる晩ご飯の時間が、好きになりました。
 夜になって眠るときには、彼女におれのふとんをぜんぶあげて、おれはロフトにあがって、はじめて彼女をここに入れたときに寄せた、使っていない弁当箱だとか、むかし集めたアメコミのDVDだとかに埋れて眠ります。首や後頭部は少し痛いけれど、なんだかふたりで夜を過ごせるのがとても嬉しくて、顔をだしてはしたの、彼女の眠る姿をみたりしていました。起きていると、彼女は目をあわせてくれました。さむい夜は、真夜中に、きていいよ、という声がして、ふとんを半分、彼女がくれます。でも、同じふとんにはいるのは、ちょっといけないきがして、おれは彼女の横で、べつのタオルケットをかけて眠らせてもらいます。 彼女が心地よく眠れるように、床は日に日に、きれいに片付いていきました。

 すくない友達には、彼女の素性というものをよく訊かれます。名前とか、年齢とか、なにをしているひとなのか、だとか。わからないけど、そんなことは関係ないよと思います。彼女は自分についてはひとこと、魔法使いよ、と言っただけでした。そんなことは、友達には言いません。一緒に住んでいるなら、恋人じゃあないのか。そう言われても、そんなふうにおれは思わないし、彼女もそうは思っていないことはわかります。でも、おれは、いまはもう、彼女に恋をしています。彼女のいうことは、おれを感動させて、忘れかけていたワクワクする気持ちを取り戻させてくれるし、彼女の目線は、すべて見透かしているようで、まるで、聖母のようだと思います。彼女のためなら、おれはなんでもできる。だから、なんでもしてあげたい。姿をみると、思いきり抱きしめたくなります。撫でたくなります。頬ずりをしたくなります。
 でも、やったんだろう?と言われると、おれは混乱してしまって、まさか!とんでもない!どうしておれが、聖母を襲うことができようか。いつか手を繋げたらなぁと、いま夢見ているところだというのに。部屋は貧乏人らしくワンルームなので、溜まった液体は、仕事からの帰り道、駅のトイレの個室でなるべくはやめに努力して出します。そのときは、彼女のことを思い浮かべてしまうのですが、なんだか笑顔を思い浮かべていると、眩しすぎて、強すぎる光で途中で彼女が見えなくなり、おれは出すそのときはいつも、光に向って射精していました。そんな日々が、一ヶ月くらい、つづきました。

ある日の帰り道、覚悟を決めました。今日こそ、彼女の名前をきこう。そうして、名前を呼んで、告白しよう。
 おれは奮発して、いつもより高い、おいしいお肉を買って帰ろうと思い、精肉店の前で立ちどまりました。でも、そんなことで好きになってもらうようにし向けるのは、なんだかいやだなと、肉と睨めっこしました。でも、思いついて、考えを変えました。このお肉を毎日買えるくらい仕事をがんばって、しあわせにすると誓いをたてれば、おれも彼女も、もっとしあわせになれる。
 結局おれは、カートに高級な肉をいれて、レジでいつもの三倍くらいのお金を払いました。でも、いい買い物をして、心はとても、あかるい晴れの空でした。
 ちいさな部屋に帰り、ちいさなテーブルに、おいしく料理した高級な肉の乗った皿をならべました。彼女がいただきます、とつぶやいたときに、言いました。名前を、教えてください。彼女はすこし黙りました。
「あなたがつけて」
 すこし得意げに、おれの目をみるのです。逡巡しました。彼女にとっては、名案で、とっておきの魔法のなかのひとつだったのでしょう。でも、おれは、彼女の呼ばれてきた、むかし誰かにつけられたその名前を、呼んでしまいたい。この感情は、おれにとっては、すこし暴力的な気がしました。そして、彼女を深く愛してしまったのだと、気がつきました。愛情は、時として、暴力的です。でも、おれは、いつも、彼女にはやさしくありたい。やさしく包んであげたい。だけど、彼女がいま着た服よりも、昔から着ている服や、育ってきた素肌を、おれは触りたい。名前を呼ぶ、それだけのことに、彼女のすべてに密着するための、いちばんいい手段を、おれは見出して、選んでいたのです。
「いいたいことがあるんでしょう。それをいってくれたら、名前を教えるわ」
 つばを飲み込み、咳払いをして、正座をととのえました。あなたのことが好きです。おれがずっとしあわせにしたいです。しあわせにします。
 おれは衝動的に、彼女の手を握っていました。どうかつたわって。つたわって。だからここにいて。彼女はにっこりとして、いいました。
「まりあ」
 ああ、やっぱり、聖母じゃないか。

 聖母か女神かなんなのか、とにかく、まりあは、言いました。じゃああなたの名前もおしえて、おれは一ヶ月のあいだ、舞い上がりすぎて、自分の名前すら彼女におしえていなかったのです。拓未だよ。
 そんなことよりも。返事は。答は。おれは膝をもじもじさせていて、いけない、と、姿勢をまたととのえます。
「じゃあ、たくちゃん?」
 どくんと胸が波うちました。いっしょにいてくれるの?!女神はうんと頷き、おれは彼女を抱きしめました。

 恋人になったまりあとの毎日は、それまでとあまり変わりませんでした。おれが感きわまって、抱きしめたり、キスをしたりするようになって、彼女も、それを、ふふっとわらって、よろこんでくれました。あいかわらず、まりあの歳や、家や、していること、なんて、知りません。時々、知りたくなるけれど、おれたちにとってそれは、たいしたことではないので、ついつい後回しにしました。でも、いつか家族には、会いたい。
 毎日、まりあのことを好きになりました。毎日、おかしいんじゃないかというくらい、しあわせでした。彼女にくっついて、よろこんでもらえること、手をつないで、スーパーにいっしょに、買い出しにいけること。
 まりあと恋人どうしになってから、そういえば、変わったところがもうひとつありました。きれいに片付いたはずの部屋が、また、散らかってきたのです。聖母・まりあから見て、これはいったい、どういう状況なのか。ワインで煮込んだ牛肉を箸でつまみながら、まりあに訊きました。まりあはにこにこして部屋を見回して、
「これはね、たくちゃんが、毎日に、たくさんのローンを抱えてるつもりになってるから」
 一体どういうことだろう。おれは、昔買った車のローンは、とっくに払い終えたはずだし、そのことではないだろう。
「自分には、この毎日がしあわせすぎるって、わけがわからないって、思ってる。そうすると、いっぱいいっぱいで、片付けることができなくなるのよ。たくちゃん、もっと、自信をもって。そうしたら、片付くのよ」
 成る程。なんとなく、わかった気がしました。たくちゃん。まりあの顔が、おれに近づく。おれの頬は、まりあに口づけされていた。頭が真っ白になって、これは、この頭の中は、しあわせの光なのか?聖母の後光なのか?おれは持っていた箸を落として、意識を失いかけました。目の前できらきらとまりあは微笑み、堪えられずにきつく抱きしめてしまうと、まりあのイヤリングは落ち、棚を揺らしたので、爪切りや耳かきまでいっしょにいれてあったペン立てが、中味をカーペットにぶちまけました。しまった、と思ったのも一瞬、おれはまりあのやわらかいなんともいえない匂いにしあわせになり過ぎて、そんなことも忘れた。視界に入って思い出しても、またすぐ忘れるのがわかります。まりあ。言うとうりだよ。でもね、もっと自信をもつなんて問題じゃ、ない。あなたにキスなんてされちゃあ、おれは、どんなに自信を持ったって、あふれる日々に、ローンだらけ。

 床のものたちを拾うより、まりあを見つめていたくて、おれはもっと片付けが出来なくなっていました。でも、散らかった部屋がかならず悪いというのは、人間だけのおもい込みよ。というのが、まりあの意見でした。そうだね、だっていっしょに片付けられる。足の踏み場があやしくなってくると、まりあとふたりで休日、いっしょに片付けをしました。そしてまた、散らかす。
 部屋を散らかしているのは、まりあもそうでした。読んでいた本を放り投げて、たくちゃんきょうは、いっしょに料理する!と、飛びついてきておれを転倒させそうにしたりしてくるように、いつの間にかなっていました。おれは幸福で、天にも召される思いでした。ああ、天に召される。
 告白をして、半年くらい経った頃、おれとまりあは、裸でいっしょに眠るようになっていました。もっとくっついていたかったからです。そこから自然に、すこしずつ触れ合って、いつしか世の中の恋人たちのように、セックスのようなことをするようになりました。散らかった部屋ですが、最中に周りのものなど、見えません。おれはいつもしあわせで、ようやくひと晩のそれが終わる頃にはうれし涙を流していました。まりあの頬にも、ときおり涙をみつけました。くるしい涙じゃないかとおれがすこし心配すると、ばか、そんなわけないでしょう、と、ほんとうにしあわせそうにわらいました。

 そうして、二年が経ちました。おれたちは変わらず、こわいくらいに愛し合っています。まりあの歳も、過去も、すくない友達も、家族のことも、いつしか自然に、知っていきました。結婚の約束も、お互いの家族をあつめてしました。まりあの実家の部屋は、とても散らかっていて、まりあは「ゆたかな人生だったから、しあわせすぎたり、こころに目を背けたり、どっちもしたのよ」とほほ笑みました。
 仕事は、いろいろあるけど順調で、給料もふえて、告白の日に買った高級な肉も、もう少しで毎日買っても余裕があるくらいになります。もっと広い部屋にすめるし、家もローンを組んで、いいところに買うこともできます。でも、おれたちは、荷造りがなかなかできません。床には、まるめたティッシュや、棚から落ちた爪切り、まりあの放った本などが、あいかわらず片付けても片付けても、散らばっています。
 時々、こわくなります。結婚や、将来のはなしをしているときです。まりあのことを、この先も深く、おれは愛しつづけるでしょう。そして、きっと、まりあも。愛せなくなるとか、自由でいたいとか、友人が心配してくるような、そういうたぐいのものではありません。反対です。まりあのことを愛しすぎて、まりあにもしものことがあったらと、こわくてたまらないのです。
 まりあも、おれに同じことを考えるといいます。いっしょにならいいけど、たくちゃんだけしんじゃったら、どうしよう。おれは、あとを追えばいい。でも、まりあは。
 別々にしぬくらいなら。時々おれたちは話します。別々にしぬくらいなら、はやいうちに、ふたりでいっしょにしんでみたいね。
 ふたりしあわせに、世界にローンを重ねて、散らかりきった部屋。深まるばかりの、愛情。とどまることを知らない愛の関係が、近付ける、死。重ねすぎると、死がちかくにやってくる。それは、愛もお金も、もしかしたらおなじなのかも、しれません。
 浴槽で、まりあの背中を洗います。おなかも、あしのうらも。可愛くて可愛くて、涙がでます。ああ、ぜったいに、いっしょにしにたいなあ。おれがいうと、まりあも涙ぐんで、うなづきます。
 ここが、うちではいちばん、せまい場所です。ここで、からだにとてもわるいガスを発生させて、抱き合ったまま死んでいる恋人どうしを、いつか誰かが、見つけるかもしれません。

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