2018.08.05

もう何度目になったかな。
本当は明日がヒロシマの原爆の日なんですが今日の蒸し暑い雨で2014年に行ってきたヒロシマの空気を思い出しました。
その時に実際に被爆した方のお話を聞く機会があって、スマホでメモ書きにしたものを後から少し編集したお粗末なものですが、お話ししてくれた矢野さんと必ず毎年今の時期にたくさんの人に伝えますからと握手して約束して来たので今年もそれを守りたいと思います。
読みにくい文章ですがよろしくお願いします。

シェア、拡散していただけるとありがたいです。

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やのみやこ
矢野美耶古さん

当時14歳

夫が体調を崩してしまって大変だが集団的自衛権の行使容認をうけ、どうしても今年話さなければならないという気持ちで参加した

ねじれ解消をというマスコミの宣伝に乗ってしまったために与党が勝ち、秘密保護法が制定され、自分が育った時と同じような状況になるのではないかと心配になった
満州事変
支那事変
広島の宇品からたくさん出兵していた
憲兵が出兵したあとにやって来て治安維持法で手紙を預かっていないか、何か聞いていないかなど聞かれて怖かった。目も耳も口も塞ぐ治安維持法
=秘密保護法
夏休みが開けると学校の一部が工場になっていて兵隊さんのシャツや軍服を作っていたがそれを下級生は見に行くことは禁じられた=軍事機密だった
日本は東洋の平和のために戦争しているのだと言われていた

学校の勉強もなくなって作業をしていた
防火隊を突貫で作るが若い男性はみんな出兵していたので残った女性や子供が引き倒した家の廃材を整理する仕事をしていた
土壁の芯として使っていた竹ですら燃料とした。
少々体の具合が悪い位では休むこともできなかった
食事もおかゆや雑炊なので体力も落ちている
夜はいつになく飛行機が飛んで来てサイレンがなっていてなるたびに防空壕に走った
原爆投下当日、下痢をしていて学校を休んだので助かった
爆心地から南四キロの家の中にいた
工場が停電のために休みだったため姉も家にいて家族全員助かった
突然ピカッと光った
父親は2キロ離れたガスタンクがやられたんだろうと見に行った
矢野さんは畳と一緒に吹き上げられて畳が抜けて床下に落ちた
すぐ外に出て爆弾がどこに落ちたかわからないが北の空が赤ともオレンジともつかない見たこともない綺麗な空の色をしていた
何だったんだろう?
わからなかった
そのうち人が逃げてきた
熱線を受けた側だけ焼けただれて皮が垂れ下がっている
心臓より下げると痛いから手を上げている
手の皮が剥けて垂れ下がっている
まさに亡霊のようだった
背中の皮を引きずって歩く人…
赤い背中の列
幼稚園とお宮が救護所になった
飛行機が飛んで来ていつも怯えていたが写真を撮りに来た飛行機だった
日が暮れるまで大八車に荷物を乗せて運んだ
その夜、家が壊れたので野宿をした
広島の町が爆心地から2キロ範囲は焼けて真っ赤に燃えていた
いつ火が延焼してくるかと不安で眠れなかった
次の朝起きてびっくりしたのが、大やけどした人は生きているのに何も怪我をしなかった無傷の人が亡くなっていたこと
不思議で一体何が起こったのかわからずに恐怖だった
傷にうじがわいて酷かった
自分は怪我もなかったので救護に回った
死体を焼く火の番が主な仕事だった
まさかその時は被曝した死体が放射能を発するとも思わずにずっと火を消えないように見ていた…
水を下さい、水を下さいと言われても火傷を負った人に水を飲ませたら死ぬと言われていたので与えなかった
下着を作ったりおにぎりを取りに行ったり死んだ人がどこの人か調べたり建物の廃材を使って幼稚園の園庭に遺体を埋める穴を掘って素手で運んだ
焼けただれた皮膚が崩れて運ぶのが辛かった
8/15に毎日飛行機が飛んでくるので姉と二人だけでも疎開するように言われ田舎に疎開することにした
いつ死ぬかわからないのに家族と離れるのは辛かった
広島は本土決戦になると西日本の中心になるために道路だけはきれいに整備されていたものの死体がゴロゴロと転がっていてものすごい匂いだった…
15日、お昼に重大放送があり、日本は無条件降伏。
ラジオで敗戦を知った
疎開先に向かって居たが来た道を戻った
戦争が終わって悔しいというより電気がつけられて夜はお布団でゆっくり寝ることが出来る
いつでも逃げられるように緊張する生活が終わったとホッとした
16日からも同じことを繰り返した
9/1からは学校へ行った
そこで初めて2年生が自分以外に2人しか生き残らなかったことを知った
他の生徒は全滅していて自分を責めた
校舎が半壊していたので晴れの日しか授業がなかった
遺骨や遺留品探しをしたりしていた
国や天皇陛下のために死ぬことが美徳で生き残ったということは非常に恥ずかしいこと
おい!そこの生き残り!と言われる
生き残ったということは死に遅れたということ
それでも友達の遺骨や遺留品を集めて早く慰霊祭をするのだという思いでがんばった
校長先生は朝礼が終わって移動途中で被曝したのでやけどはおったが助かった
親たちから自分ばかり生き残ってと言われてかわいそうだった
それでも校長先生は慰霊祭をやるのだという思いでがんばっていた
生き残った子供達もサボったから生き残れたと亡くなった子の親たちから責められた
命の大切さがわからずにいた
川に飛び込んで死のうと思ったけど死に切れなかった
日が暮れて家に帰ったら母親が生きててくれてよかったと抱きしめてくれた
それで初めていきていてよかったと思えた
2年後に平和憲法が出来て本当に嬉しかった
もう日本は戦争をしないんだと思ったら本当に嬉しかった
栄養不足で口内炎や貧血、ものもらいでひどかった
検査してもらったら白血球が減少しているだけで異常はないと言われたが、たくさんの死んでいった人と同じように紫色の斑点が出たり髪が抜けたりしていたので死ぬのではないか?原爆の影響があるのでは?と医師に問うと4キロも離れて家の中にいた人には影響はないと言われた
(2キロ内でないと影響はないと思われていた)
姉が最初に影響が出て発熱。
家族みんな血尿血便下痢。
栄養状態が悪いせいだと思っていた
周りのみんながそんな感じだったので原爆のせいだとは思わなかった
被爆者健康手帳を厚生労働省からもらうと被爆者として認定されたことになるが被曝していても手帳をもらえなかった人はいっぱいいた
矢野さんは自分は被爆者ではないと思っていたが、12年後に手帳をもらった
一般手帳と特別手帳というのがあって一般手帳をもっているメリットはなかった
むしろ、就職や結婚の際に被爆者だということで差別を受けた
手帳の種類が4種類
一号被曝〜四号まで
一号は直接被曝
四号は胎児

語るようになったのは随分あと
木の葉のように焼かれて
という手記を見て語ることを始めた
引きこもった生活をしていたが近所の人が連れ出してくれて始めて冊子を手にした
先輩の手記だった

妹は世の中に何も残さずに死んで行ったのです

それを見て話すことを決めた
話さなければ同じだと思った
被曝二世問題を掘り起こしたら異論が起こった
被爆者の子供がみんな白血病になって死ぬ恐怖を味わわねばならないのか?
また結婚差別、就職差別をうけるのか!?

被爆者の話を聞いて歩いたら
自分の家族はみんな内部被曝していたことがわかった
ABCCから父親が亡くなった途端すぐに解剖させてくれと言ってきた
治療も一切してくれないのになんで研究なんだ?!と反対した
母親に語ることをやめてくれと言われたが語るにつれ霧が晴れていく感じをうけた

一体だれが戦争を起こしたのか
そして性懲りも無くまた何故戦争を起こそうとしているのはだれなのか
見極めて、自分の出来ることをやってきた
原爆写真展をやった
ドクターストップがかかってだんだんと語る人が減ってきている

戦争は繰り返してはならないと次世代に伝えたい
紛争地域では子供達がまた犠牲になっている
自分の出来ることをやって欲しい

この世から核兵器を廃絶するということをみなさんと一緒にやって行きたいと思います。

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あれから四年たったけど
矢野さんはお元気かなぁ。
こんな風に語り手も歳をとり、当時のことをリアルに知る人も少なくなって来ました。
あの時ドラム息子が
戦争を知っている人がいなくなったらまた戦争が起こるかなぁ、伝えていかなくちゃと言っていました。
矢野さんのようにできることをやらなくちゃと思います。

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