私の中の、ミーハー考。
いつも、ミーハーな子のことを「冷めた目」で見ていた。
高校の頃のミーハーな友人は、新作のコスメが出れば目を輝かせて、当時流行っていたクルーズブログでレポ記事を書いていたし、
好きな俳優がテレビに出ていればその魅力をペラペラ語り、出たばかりのiPhoneに映る画像をうっとり見つめ、
ダンスが好きだった彼女は韓国アイドルの新曲が出ればコピーのために休み時間や放課後の空いている時間の、その全てを費やしていた。
彼女は、“スキ!”の熱量はいつも一杯にして生きていて、ただひたすらにキラキラ輝いていたのだが、
私は心のどこかで「私はあぁはなれないわー」と考えていた。
そんなどこか乾いた気持ちを持ったまま、8年が経った。
先日、会社で「ミーハー」の話になった。確か芸能人の話だったと思う。もちろんいつものように答えた。
「芸能人………あんまり興味ないです。道端で会ったりしても話しかけるなんてまず絶対しないw見たって、なんにもならなくないですか?」
……………めちゃくちゃ冷めた奴である。でも、その時自分の発した言葉なのに「うわ」と思ったのだ。
地元から、東京に出てきて4年目。デザインの専門学校に2年通い、社会に出てからは2年目。
その間にあった色々な出来事や、見た色々な記事、自分とは異なる考えをもつ人との出会い、そして結婚を経て、自分の中でじわじわと変わっていた価値観が、この発言の違和感に気づいた。
“ミーハーって、そんなに悪いことなのか?”
あの高校の友人のことを思い出す。
ミーハーだった彼女は、今美容師のスタイリストとして働いている。
美容師という仕事の、私の中にあるイメージは「キツい・手が荒れる・好きだけどお給料が合わず辞める人が多い」といった感じである。(「違う!こうだ!」という修正があれば教えてほしい)
ただ彼女は、自分の好きなことに絶対的な自信を持って仕事に挑んでいるのでいくらキツくてもめげない。
それに気がついた時、「ミーハー」というものが「素直」で、「好きなことに忠実」というイメージに変わっていった。
全てのミーハーがこうだとは限らないが、ミーハーは
「色々なことに興味がある。」
↓
「色々なことを知る」
のサイクルによって成り立っていると思う。もちろん、反ミーハーだった私はこのサイクルを踏んでいない。
だから、これの、ここの部分に関してはめっちゃ詳しいです、私。と胸を張って言えるものが、私にはない。
対して、図らずも幼い頃から「ミーハー」を続けてきた人たちの好奇心には、到底及ばないのである。
最近読んだ、「なぜ、あなたの話は響かないのか」という本の中には『「あなたの憧れる誰か」が価値の源泉となる』という一文がある。
すっごく稚拙にまとめてしまうと、自分が憧れる人の真似をしてみなさい、ということなのだが、これもミーハーと繋がる点があると考えている。
また高校の友人の例でいうと、当時は倖田來未ブーム真っ只中で、彼女も倖田來未の真似をしていた。それこそメイクとか。
「自分の憧れている人・もの」を、「なりたい自分」の目標値とする場合のみの話なのだが、とりあえずその真似をしてみることで目標に近づきますよ、という話。
以前担当してもらっていた美容師さん(上京する前に東京にくる時にたまにお願いしていた)に、専門学校へ行く将来の話をしていた時、話の文脈は忘れてしまったのだが、
「人の真似もできないようだと、何にもできないよ。人の真似なんてどんどんしちゃって自分の技のひとつにした方がいいよ!」
と言われたことがある。人の真似事は悪!と思っていた私にとって、ずいぶん衝撃的なひと言だった。
たしかに、真似事をしてみることでわかることだってあるだろう。そこで「自分の個性」を見つけることができたら、ラッキーだ。
高校の頃のミーハーな友達、「なりたい自分」になるための「憧れの人」の設計、昔の美容師さんの話………。
ここまできて、もうミーハーにならない理由が逆になくなっていることに気がつく。
冷めた自分なんて捨てて、芸能人なんて興味ないですなんて言わないで、いいから「ミーハー」をはじめてみよう。
実はすでに憧れの人はいて、「なりたい自分」も固まりつつあるのだが、みてみると素晴らしい人は世の中にたくさんいて、憧れの人が増えまくってしまった。
憧れの人が増えすぎてしまうと芯がブレてしまいそうだし、多重人格チックになってしまいそうで怖いので「この人の、こんなところが憧れ」というように、少しずつ色々な人のいいところをかいつまんで自分のものにしていこうと思う。
まだまとまるのに時間がかかりそうなので、時間をかけながら「なりたい自分」を形成していけたらいいよね、と、ミーハー初心者の自分に語りかけてみる。
“平成最後の夏”に、「ミーハー」を始める自分。
エモ………くはないが、悪くもない。
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