【連載小説】『ひとりぼっちのゾーイ』後編
<『ひとりぼっちのゾーイ』続き>
ほどなくしてふたりは一件の小さな家の前に着いた。壁が水色の、かわいい家さ。
「ここはいったいどこなんだい?」
きょろきょろしながら、男の子が尋ねた。
「ここね、私が住んでいた家なのよ。ちっとも変わってないわ。」
ゾーイは懐かしそうに、そして少し寂しそうにその家を眺めた。一階の窓からは、カーテン越しに、暖かいオレンジ色の明かりの中で走り回る子どもたちのシルエットが見える。
「あれはきっとお姉さんの子供たちだわ…。」
二階は真っ暗で人の気配がない。ふたりは家の裏に回った。
「それで…いったいここで君は何をしようっていうんだい?」
「パパとママに、伝えたいことがあるの。さあ、あそこの物置にはしごがあるから、持ってきてちょうだい。あそこから入るのよ。」
ゾーイは二階の出窓を指さした。
「私は一足先に入ってるから。」
「え?」
ゾーイは不思議そうに首をかしげる男の子を置いて、ひゅうと飛び出すと、二階の出窓をすり抜けて宣言通り先に部屋に入っていった。
「そんな簡単に入れるなんてずるいよ。」
男の子がはしごを抱えながら外でなにやらぼやいている。
真っ暗な部屋の中で、少しずつ目が慣れてくると、中の様子がだんだん分かってきた。ゾーイがかつて使っていた部屋だ。今は誰か違う子の部屋みたいだけど、ゾーイが大好きだったおもちゃが、まだたくさん飾ってある。ベッドの脇の小さなテーブルの上にはパパとママ、お姉さんの家族の写真が立ててあった。
「私はあれからずっとこの姿のまんまなのに、みんなは時間の流れにそってどんどん変わっていくんだわ。」
ゾーイはそっとつぶやいた。
「やれやれ、なんで玄関じゃなくてこっちから入らなきゃいけないんだ。」
男の子がやっとのことではしごを登ってきて窓を開けた。
「しー!あんまり大きな声でしゃべっていると下まで聞こえちゃうわ。」
ゾーイはいたずら好きの坊やに注意する母親のように言った。
「子供らはうるさいし、テレビの音もするみたいだ。大丈夫だよ。」
「そうね。あのね…こっちから入ったのは、私が急に現れたら、パパやママは驚くでしょう?私、他の人にこわがられるのはもう慣れっこだけど、パパとママにこわがられるのだけは絶対に嫌なのよ。」
男の子は不思議そうな顔をした。
「君のパパとママは君が目の前に現れたら、きっと喜ぶんじゃないかな。僕だったら飛び上がって喜ぶと思うよ。きっと君に、どうしようもなく会いたがっているはずさ。」
「たとえそうだとしても、私、会っちゃいけないような気がするのよ。」
ゾーイはもう一度寂しそうに家族の写真を見つめた。
「でも…、会っちゃいけないなら、どうやってその『伝えたいこと』とやらを伝えるんだい?」
「そうよね…。」
ゾーイは顎に手を当てて考え込んだ。
「手紙にでも書いて置いておくなんてどうかい?」
「…し!音がするわ。誰か来るかもしれない。」
ふたりは真っ暗な部屋の中で息を潜めた。
「もう子どもたちったらはしゃいじゃって。」
「ハロウィンが楽しくてしょうがないんだろう。」
「あんなにたくさん焼いたケーキがもうなくなっちゃったわ。」
階段の下で、大人ふたり、立ち話をしているような声が聞こえてきた。
「パパとママだわ。」
ゾーイは囁いた。どうやらふたりは、二階に上がってくる様子はなく、騒がしいパーティーからちょっと抜け出してきたみたい。
「…ねえ、ゾーイがハロウィンの時、天使の恰好をしたの覚えてる?私があの衣装作ってあげたのよね。とてもかわいらしかったわ…。あの子ったらハロウィンの日が終わっても天使の羽をつけたがって…。あれで空を飛ぶんだって言い張ってたわね…。」
そう言って少し笑うとママは声を詰まらせ、やがて少女のように泣き始めた。
ママ…。ゾーイはじっと部屋からそれを聞いていた。
「あれからもう何年もたつけど、私ね,今でも一生懸命探せばゾーイはどこかにいるんじゃないかってそんな気がするの。」
「僕だってそうさ。」
パパの声だ。
「すぐ近くに寄り添ってるんじゃないかって思うことだってあるのよ。でも私の中のあの子はどこを切り取っても、思い出の中のあの子でしかないのね…。」
ママの声は、たまらなく寂しそうで、ゾーイはすぐにでも近くにいってやりたい気持ちをおさえるのがやっとだった。ママの近くには、パパがいるんだ。
「…あれから、なんだか私の半分もどこかに消えちゃったみたいな気分だった。ごはんを食べてもおいしくないし、世界はサングラスを掛けたみたいにモノクロだし、美しい音楽を聴いてもこころに響かない。」
「わかるよ。あの子は本当にその場をぱっと明るくさせるような子だった。だから、最初はそれでいいと思うんだ。でも、今君は笑うことができる。孫にも恵まれ、家族から愛されているんだよ。ゾーイもそれを知ったらほっとするんじゃないかな。」
パパ…。ゾーイは聞きながら、こらえきれずに涙を流し、静かにくすんと鼻をすすった。
ママの泣き声も、いっそう大きくなって聞こえてきた。
「私、ゾーイにしてあげたかったことがたくさんあるのよ。」
「そうだね…そのやさしさを,今度は今周りにいる別の人たちにまわせばいいんじゃないのかな。…さあ、そんな泣き顔子供らに見せられまい。少し落ち着くまで散歩に出よう。戻ってきたらパーティーをお開きにするのにちょうどいい時間だろう。」
玄関のドアがきいと開く音がして,パパとママが散歩に出かけたのがわかった。
男の子は涙をひとつ流したゾーイの、肩まで伸びた栗色の髪に手を重ねた。
「君はみんなから愛されていたんだね。」
「……。」
ゾーイは少しの間黙っていた。
「いけない!パパはパーティーをお開きにするって言ってたわね?二人が戻ってくる前に用を済ませないと!」
ゾーイは我に返った。
「でもどうやって…。」
途方にくれる男の子を尻目に、ゾーイはもう一度部屋中を見渡した。
「ちょっと待って!手紙よりいい方法を思いついたわ。これよ!」
ゾーイはそう言うと,たくさんのおもちゃの中から、オウムのぬいぐるみを指さした。
「これ?」
男の子はオウムの隣にある小さなガラスの箱を取り出した。ゾーイはぎょっとしてまるでそれがパンドラの箱でもあるかのように、男の子がそれを開こうとするのを止めた。
「そっちじゃないの!それはだめ!その箱をおろして!」
「どうして…?」
男の子はだめと言われるとどうやらやってしまいたくなる性格らしかった。ゾーイの制止は手遅れで、彼は箱の蓋を開けてしまった。するとガラスの箱の中から、美しいメロディーが流れ出した。
ポロン、ポロン…
「下に聞こえちゃう!はやく、はやく蓋を閉じて。」
ゾーイにそう促されると、男の子はようやくどういうことか理解して慌ててオルゴールの蓋を閉めた。
「だから言ったじゃないの!」
そう言うとゾーイはあわてて口をつぐんだ。今度はゾーイの方が思わず声を潜めるのを忘れて大声を出しちゃっもんで男の子がぎょっとする番だった。
「いけない…!」
そのとき、下から階段をのぼる足音が聞こえてきた。
「どうしよう、きっと音が聞こえて様子を見に来たんだわ。これはお姉さんの足音じゃないわ。そうすると…きっとお姉さんの子どもかしら。」
ゾーイがそう言うのを聞いて男の子は慌てながらも感心した様子だった。
「足音で誰だかわかるもんなのかい?」
「家族って階段をのぼる足音で誰だかわかるものよ。さあ、そんなことより早く隠れなくちゃ。」
ゾーイはそう言うとひゅうっと壁をすり抜けて外に出て行ってしまい窓から部屋を覗き込んだ。
「君はずるいよ。簡単に逃げられるんだから。」
男の子はまたなにやらぶつぶつと文句を言うと、隠れる場所を探した。窓から逃げるにももう間に合いそうにない。男の子はクローゼットの中にそっと隠れると息を潜めた。すると、すぐに部屋の扉が開くのが聞こえた。
「ねえ、誰かいるんでしょ?」
それは、小さな子どもの声だった。子どもは誰かが答えるのを待つようにしてそこに立っている。男の子はクローゼットの中で息を殺してただじっとしていた。部屋の中で、壁にかかった時計の針の音だけがかつ、かつと響いている。やがて小さな声の主がよちよちと部屋を出て行こうとするのが聞こえ、男の子はふうっと安堵のため息をつくと、次の瞬間なんだか鼻がむずむずしてくるのがわかった。そしてよりにもよってこんなときに、大きなくしゃみをしてしまったんだ!
「はっくしょん!」
「やっぱりそこにいるんじゃないの!」
小さな声の主はすぐに目ざとく戻ってきた。
「誰にも言いやしないから、出ておいでよ。」
そう言うと、声の主はがさがさと部屋中を探し始めた。そしてあっさりとクローゼットを開けてしまい、慌てた顔で口に人差し指をあてた男の子とその子どもはとうとう顔を合わせることとなった。
「やっぱりね。」
声の主は満足そうににんまりとした。口には溶けたアイスクリームとチョコレートのようなものをつけて金色の髪の毛はくるくると思い思いの方向に散らばっている。頭には赤い角をつけて矢印みたいな杖を手に持ち、どうやら悪魔の扮装をしているみたい。
「やっぱり。僕はなんだって聞こえるんだ。ピアノをやっているから、耳がいいんだっておばあちゃんは言うよ。さっきママやお姉ちゃんたちに二階から人の話し声が聞こえるって言ったんだけど、またそうぞうじょうのおともだちのこと言ってるんでしょって聞いてくれないの。たしかに、僕はしょっちゅうそうぞうのおともだちの話をママやお姉ちゃんたちに聞かせるけど、これはそうぞうなんかじゃないよね。ほんとのことだもの。でも、なんでそうぞうの中におともだちを作っちゃいけないのかな。ママはやめなさいっていうんだ。ほんとのともだちをつくれって。でもそうぞうじょうのともだちだってほんとのおともだちには変わりないと思わない?」
坊やはやっと話し終わると、大きな目を輝かせて相手の答えを待った。
「そう思うよ。ともだちってのは大切なものだよ。たとえその友達が…想像上の生き物や、…おばけだったとしてもね。」
男の子は坊やの肩に手をあてて答えた。
「さあ、安心したかい?それじゃあ僕はやらなきゃいけないことがある。それが終わったらすぐに出て行くから、静かに下に行くんだ。ママやお姉ちゃんに、このことを言っちゃあだめだよ。いいかい?」
「…でもお兄ちゃんここで何しているんだい?」
坊やは不思議そうに男の子を見上げた。
「…そうだな。僕にもよくわからない。でも、ともだちを助けたいんだ。さあ!」
男の子が坊やの背中をやさしく押して促すと坊やはきちんと約束を守り、おかしいほど慎重に階段をおりて行った。
男の子はそれがわかると、すぐに窓を開けた。
「おい!もう大丈夫だよ。」
ゾーイはまたひょいと部屋の中に入ってくるとたいそうあわてた顔をしていた。
「さっき空から見たんだけど、パパとママがもう戻ってきているの。まもなく家に着いちゃうわ。急がないと!」
「わかった。それでさっき君が指差したのは…。」
「それよ。」
男の子は今度こそ正しいぬいぐるみを抱え上げた。でも、いったいこれでどうやって言い残したこととやらを伝えるっていうんだろう?
「お願いがあるの。右足のボタンを押してくれない?じゃあ、いくわよ。もう、二人が戻ってきちゃう。」
男の子はこくりとうなずき、言われたとおりボタンを押そうとした。けれど、急に思いとどまってその手をぱっと止めてしまった。
「僕、嫌だよ。手伝いたくない。」
「どうしたのよ、急に?」
男の子はうつむいて言った。
「やり残したことをやり遂げてしまったら、君はどうなる?君と離ればなれになるなんて嫌さ。」
女の子はそっと言った。
「…私も嫌よ。でもね、いつか終わりが来ることはとても悲しいことだけど、本当に本当の永遠を手にしたとしたら、それはそれでもっと悲しいことだと思うの。永遠が保証されていたら、きっと人はなんにもしなくなるわ。私はこれをやり遂げなければ、ずっとこの世界に取り残されることになる。それにね…」
ゾーイは少し微笑んで続けた。
「ともだちがやっとできたから、もう思い残すことなんて他にないの。私は十分、しあわせよ。」
男の子の頬を涙がつたった。
「…だからお願い。」
――ゾーイは男の子の目をじっと見つめた。
ほどなくすると、二人はまたはしごを使って、ゾーイの部屋の出窓から降りてきた。もっともゾーイはまたひょろりと窓をすりぬけただけなんだけどね。
「それじゃあね。ありがとう。…さようなら。」
ゾーイは男の子に言った。
「ちょっと待ってよ。もう行ってしまうのかい?」
「ここでお別れした方がいいと思うの。そうじゃないと、辛くなってしまうから。」
ゾーイは男の子に近づくと、そっと抱きついた。今度ばかりはなんだかその感触が伝わってきたような気がして、男の子は目をつぶった。
すると、気がついたときには、ゾーイは男の子の体をするりと抜けて、月のきれいな夜空に飛び出していったんだ。女の子は両手を広げて体中に大空の風を感じた。ゾーイの家や男の子は、どんどん小さくなっていく。男の子は見えなくなるまでゾーイを見つめていた。ゾーイが、粉のように空に溶けてしまうそのときまで。
その時、パパとママが家に帰ってきた。
「おかえりなさーい!」
坊やは、二人を迎えるとゾーイのママに抱きついた。
「おばあちゃん、さっきね、窓の外を見てたら、天使の羽を背中にくっつけた女の子が、お空を飛んでいたんだよ。」
「またそんなことを言ってるのね。あらまあ、お口がすごいことになっているじゃないの。ママに言って拭いてもらいなさい。」
「はあーい。」
かわいい返事をすると、坊やは素直にリビングに走っていった。
「もう、はしゃいじゃって、ハロウィンが楽しくてたまらないのね。」
ママはやれやれといった感じで、でも微笑みながら言った。
「おや。」
ドアの鍵をしめると、二人は玄関を入ってすぐの階段の一段目に、ゾーイが大事にしていたオウムのぬいぐるみが置いてあることに気がついた。
「あら、子ども達ね。ちゃんとお片付けしなきゃいけないじゃないの。」
「まあ、いいじゃないか。」
パパがママをなだめた。
「これ、あの子が好きだったぬいぐるみね。たしか声を録音できたはずだわ。よくいろんな言葉を録音してたっけ。」
二人は目を見合わせた。
ママが、ゆっくりとオウムの左足のボタンを押してみた。
するとオウムは命を吹き込まれたようにそっとくちばしを動かした。
「パパ、ママ、ありがとう。」
それはとても懐かしく、愛おしい声だった…。
* *
「そんな話、私は信じないわ。」
ウエイトレスの女の子は、男の子の顔をいぶかしげな目でのぞき込んだ。
「ほうら、信じないだろうって言ったじゃないか。」
男の子はふうとため息をついた。
「それで、その女の子はその後どうなったってわけ?」
「その後、二度と僕の前に姿を現すことはなかったよ。でもこうして窓の外を見ていると、あの夜のことを思い出す。またひょいとこのパブにやってくるんじゃないかってそんな気がするんだ。」
「これだから映画監督志望の男は困るわ。いっつもどこか物思いに耽って空想してる。」
ウエイトレスの女の子は、肩をすくめて首を振り、栗色の髪を揺らした。
「もし僕がこの話を映画にしたら、君に主人公を演じてもらうよ。いいかい?」
「ばかね。私おばけの役なんか嫌よ。」
「そう言うなよ。」
二人は笑い合った。
その時、パブの扉がゆっくりと開き、ベルがからんからんと鳴るのが聞こえた。
こんな冷え込む夜に、その珍しいお客はちょうど外に舞う粉雪が迷い込んで来たかのようにするりとパブに入ってきた。
終わり
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