【連載小説】『クリーピー・ボーイ』#3(最終回)

〈『クリーピー・ボーイ』続き〉 

 その夜、ベッドに入っても、少年は眠れなかった。
 目をつぶると、そこには白いチュチュを身に纏い、オペラ座の舞台に立つ彼女の姿があった。
 まるで蝶々のように、トウシューズを履いた白いきれいな足を小刻みに動かしながら踊る彼女は、とても美しかった。美しすぎて、なんでだかなんてわかんない、けれど、涙が出て止まらなかった。少年は、一晩中幻想の月明かりの下で、ガラスの涙をこぼし、その存在しない左足を突き刺し続けた。

 その日から少年は、窓の輪郭の中や街の何気ない情景の片隅や、その澄んだ目に写る全てのものの中に、彼女を探した。小さな部屋から這い出て、あてどなく、外の世界を歩くようになった。
 ある時は街の公園をひとつ残らず回ってみたし、子ども達とボール遊びをしたり、パントマイムをしているおじさんの壁を思いっきり蹴って壊してやったり、あのばかげた冗談に望みをかけて街の銃砲店を覗いてみたり、殺し屋が主人公の映画がやっていたら隣町まで地下鉄に乗って見に行ったりしたこともあった。彼女を見かけて、追いかけたことだってある。それも何度も。けど、声をかけて相手が振り向くと、絶対に違う顔をしているんだ。髪型がちょっと似てるだけで、全部彼女に見えて信じられないほど心臓がどきどきしてしまう。足を見れば、あまりにも違いすぎて、どれだけ自分がばかな間違いしたかって、すぐわかるのに。
 その日も、彼はちょうど120人目の彼女の後ろ姿を追いかけているところだった。
「あの…」
 赤信号で止まった彼女に、うしろから声をかける。
 彼女が振り向く。
「何でもないです。ごめんなさい」
 下に目を向けると、やっぱりあの足とは違う。少年は、顔をしかめる女に背を向けて歩き出す。
 落ち葉を少し引きずって、音を立てながら、のそりのそりと歩いていく。
 街はいつしか肌寒い風が吹き始めていて、彼の病的に細いからだと足には、少しこたえた。
 彼は、小さな公園のベンチに座った。そして水飲み場のそばにある大きなプラタナスの木を見て、思い出した。
 あれは、かつて少年が肩を押しつけられた木だった。クラスメートの少年達に、あそこで体を木に打ち付けられ、水をかけられ、からかわれたんだ。少年は、抵抗なんてしなかった。無気力だったと言えばかっこいいけど、本当はみんなが恐かったから。
 そう、こんな風に奴らのことを思い出すのは、そんなに珍しいことじゃない。
 街を歩くと、どこからか奴らが現れるんじゃないかっていうびくびくを、常に心に携えてなくちゃならない。スーパーに行けば無理矢理万引きさせられたことを思い出すし、子どもの笑い声を聞けば、クラス中のみんなが自分のことをばかにしてののしり、笑っていた光景が頭にちらつく。彼女と会うまで、外の世界は、恐いことばかりだった。安心できる場所なんか一つもなくて、寂しかった。誰も、彼がありのままの彼で息を吸って吐くことを、許してくれない。そんな気がしてた。
 不意に風が木々を揺らし、葉の揺れる音が声に聞こえる。やっぱりここはおまえの居場所じゃないんだよって、もとのひとりきりの部屋に戻るんだって言われているみたいだった。
「僕はここで一体何をしているんだろう」少年は口に出して言ってみた。
 あの子だって――彼がずっと今探し求めている彼女だって…適当に少年をあしらっただけかもしれない。いや、普通に考えればそうだろう。『運命を信じてる』だなんて、上手いごまかし方だ。二度と会いたくない奴には、いつもああ言ってるのだろうか。それに万が一もう一度会えたとしても、だいぶ時が経ってしまっている。彼女はきっと一度会っただけの僕の顔なんか覚えていやしないよ。僕があんな子に釣り合うわけがないんだ。付き合えないことくらいわかってる。ただ、僕は一緒にコーヒーを飲みに行ったり、あんな風にまた公園で話をしたり、そんなことがしたかっただけ。ともだちに、なりたかっただけなんだ。
 少年の頭の中はぐらんぐらんと波打ち、彼女なんて、最初から存在しなかったのかもしれない、という考えに至った。きっと彼の理想が生み出した、幻想だ。そう思うことにすれば、少しだけ楽になったし、安心して、また元の自分の世界に戻れるような気がした。
 家に帰ろうとして、立ちあがった。落ち葉のかさりという音がした。
 少年は「でも」と思った。
 彼女に出会わなければ、こうして落ち葉を踏みしめた時に鳴るかさりという音も、聞くことがなかった。こども達と笑い合うこともなかったし、ギャング映画のおもしろさを知ることもなかったし、こんなに夜になる前の風が寂しくて、心地がいいことも知らなかった。
 二度と会えないとしても、彼女と出会ってから彼の目に入った全てのものは、絶対に消せることのない事実であり、一度しか会ったことのない彼女が彼に残してくれたプレゼントのように思えた。
 確かに、外に出なければ、いじめられたことをこんなに思い出すこともなかったし、どこかで彼等に出くわすのを怖がる必要もない。けれど、外の空気は、彼にそれ以上の可能性を与えてくれるような気がした。結局のところ彼は、ごく単純な人間なのだ。いびつで不格好な歯車の形をしていても、恋とかそういうものは、思っていたよりもあっさりと世界を動かしてしまう。
 少年は公園の隅で、鳩にえさをやっている老人を見つけた。
 彼なら、きっと200年くらいはここにいて、この公園で起こっている全てのことを見守っているに違いない。少年はもう200回くらい人に尋ねている質問を彼にした。
「バレエを踊る子を知りませんか?」
老人は肩に乗っていた鳩を地面に降ろすと言った。「一度見たことがある」
「本当ですか?それはいつですか?」
「今日だよ」老人はポケットから鳩のえさを取り出す。
「今日っていつ?」
 少年はそう言いながら、老人の背後の生け垣の向こうで何かが動くのを見つけた。彼女だった。絶対にそうだと思った。
 少年はまだ何か言っている老人の目をもう一度見ると、少し口を開いたが、もう心はここになく、何も言わず駆け出していった。
 いや、『駆け出す』なんて、そんなかっこいいもんじゃなかった。もっとおかしな、むずむずするような、気持ち悪い衝動だった。
 少女は彼の前で、見えなくなる地平線に向かって歩いていく。角を曲がって、またまっすぐ進む。街灯だとか、木だとか、人々だとか、道とか、街の景色が液体のように剥がれ落ちていき、二人は白と黒の、ぐるぐるした果てのないトンネルに入っていく。少年は追いかけるが、足がもつれてなかなか追いつかない。少女が振り返る。風にたなびいた黒い髪がかかっていて、よく顔が見えない。少女はまた前を向くと、少しづつ足を速めていって、しまいに走り出した。時折後ろを振り返って、怯えるように少年を確認しながら。
 少年は、自分がどこにいるのかわからなくなった。自分を見失った。二人の距離は開いた。
 彼女がまたいなくなってしまう。この世界から、走って、ぼくから逃げて、だんだん消えていく。
 
 少女がつまずいて倒れた。
 加速していた渦巻きの世界が急に止まる。少年が這うように、のそのそと、ゆっくり近づく。

「おい、どこに目つけて歩いてんだよ」
 その時、胸に感じた圧力と共に、使い古されたようなちゃちなセリフが、少年の耳に入ってきた。なんだか聞いたことがあるような声の気がして、少年はその声を発した人物の顔を一度見た。けれど、何も言わないで前方に視線を戻した。もう、さして重要なことじゃないように思えたからだ。
 けれど、そこにはもう、彼女の姿はなかった。少年は、蜃気楼を追うように、死んだ魂を追うように、また歩き出した。
 次の瞬間、左足に衝撃を感じた。正確には、そんな気がして、とにかくよろけて、地面に倒れた。
「久しぶりじゃないか、無視するなんて見ないうちに随分偉くなったな」
 少年が顔を上げると、そこには街灯だとか、木だとか、人々だとか、道があって、いつもの見慣れた街の中に、いつもの見慣れた四つの顔が、こちらを上から覗き込んでいた。
「本物じゃないから、別に痛くないんだろ?」と、蹴った本人が言う。「学校はどうした。ずっと風邪でも引いてるのか?」
「こいつ、ママが送り迎えしてくれなきゃ、学校も来れないんだぜ」
 四人は笑う。そのうちの一人が言う。
「幽霊って見たことあるか?あいつら歩いたりしないで、浮かんでるらしいぜ。お前ひょっとして…」
 また、四人は笑う。
 少年の頭の中に、あの光景が浮かんだ。肌の白い幼い少女が、壁に押しやられて、何人かのこどもたちから幽霊、幽霊って言われて、目に涙を溜めながら耳を塞いでいる光景。それは、ほかでもなく少年自身の記憶でもあった。その記憶の中で、少年も耳を塞いでいた。今まで何度も聞いた、吐きそうになるくらい、忌まわしくて、哀れで、みじめで、悲しい響きだった。
 少年は、ただ、ゆっくり、そして不格好に立ち上がった。
 四人はおもしろそうにそれを見る。
 すると少年は、表情を変えずに、ただ淡々と、白いコートの内ポケットに隠したその鋭い物体を取り出し、振り下ろした。

「きゃー」
 ブランコに乗りながら見ていた子どもが悲鳴を上げた。
 その悲鳴は次々と周りの子どもたちに伝染し、ベンチに座りデートを楽しんでいた大人たちも走り出した。
 近くにいた警官が、異変を察知し駆けつけると、そこには地面に垂れて枯れ葉に染みた数滴の血と、腕を押さえる少年。それから、手にナイフを持った少年が、俯いて立っていた。
「今すぐそのナイフを放しなさい!」
 銃を構えて、警官が少年に近づく。
 少年はゆっくりと顔を上げる。
 長く伸びた前髪の隙間から警官の顔が見える。
「今すぐナイフを降ろしなさい!さもないと…」
 少年は優しく微笑む。
 警官は、その笑みに不気味さを感じながらも銃口を向けたままじりじり近寄っていく。そして少年の目と鼻の先まで来たところで止まる。
「これ、初めて使ったよ」少年はナイフを見せるように翳す。
「早く降ろしなさい」警官は戸惑いつつも叫ぶ。
 少年は言う。
「ねえ、僕たち一度会ったことがあるような気がしませんか?」
 警官はたじろぐ。なんでこんな時に、この少年は、自分に向かってこんな風に使い古されたような、男が女を口説くときに使うようなセリフを自分に言ってくるのか、訳が分からなかった。すごく場違いなことのように思えた。
「覚えてなくても、いいよ」
 少年は少し悲しそうな目をしてそう言うと、ナイフを持っていない、もう片方の手をゆっくりのばした。警官はそれが近づいてくるのを感じた。だけど、魔法にかかったように動けない。
 頬に少年の手が当たってひやりとした感触が走ると、警官は少年の手を払って突き飛ばし、震える手で銃を発砲した。いつも持ち歩いている銃を、人に向けて撃ったのは、人生でそれが初めてのことだった。
 少年は倒れた。
 まだこんな場面に遭遇したことのなかった新人の警官は、すっかり震えてしまい、その場を動くことが出来ない。
 その時、うしろから刺された少年の声が聞こえた。
「幽霊って言っただけだ」
 警官はその『幽霊』という響きに反応し、一瞬後ろを振り返った。慌てて向き直ると、少年は上半身を起こしていた。優しい目をして、微笑んでいる。
「そうか、最初からこうすればよかったんだ。君は世界を守るスーパーヒーローだもんね」少年はそう言うと、長く伸びたその茶色がかった前髪を掻き上げた。警官はその瞳を見て、何かを感じた。でもまだそれがなにかわからなかった。傷口を確認しようと視線を下にずらすと、撃たれた左足の裾がめくれ上がり、そこから鉄の足首が見えていた。
 警官は、一筋の涙を流した。手から力が抜けたように、ピストルが地面に落ちた。
「泣かないで」
 少年はナイフを手放して、ズボンからハンカチを取り出すと、這うように近づいていった。本当におかしな動きだったけど、力強かったし、美しくすらあった。
 
 警官は目に涙を溜めて少年をまっすぐに見つめると、その短い小指を差し出した。少年はその手のこぶしごと掴み、力を預けてゆっくりと立ちあがった。
 
 彼女は、自分より少し背の低い少年の肩に、首を預けた。
 少年は彼女を、そっと抱きしめた。

                 

                     終わり

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