【連載小説】『クリーピー・ボーイ』#1

『クリーピー・ボーイ』

           須田 マドカ

 
 落ち葉舞う街角で男は言った。「ねえ、僕たち一度会ったことがあるような気がしませんか?」
 女はただ、顔をしかめただけだった。
 そう、こんな風な、昔から決まって男が女を口説くときに使い古されているようなきざなセリフを聞くのは、この街じゃ、よくあること。ごくありふれた、いつも通りの光景に過ぎない。この世に、恋だとか、人を好きになったりすることがある限り、それはただ、繰り返されていくことなのだ。

 白いペンキで塗られた木の窓のふちを、小さな生き物が這っていた。毛虫だか芋虫だかわかんないけど、そんなようなもの。ここは8階だから、こんな小さな虫がここまで辿り着くのに、きっと気の遠くなるような時間をかけて、少しづつ、少しづつ、這い蹲ってきたにちがいない。
 少年はポケットからフルーツ用のナイフを取り出すと、虫をそこに這わせた。
 その真っ白な部屋は、なんだかぞっとするようなものでいっぱいだった。片方のレンズが割れたメガネとか、秒針しかない時計だとか、スーパーヒーローのフィギュアの首のないやつとか、最後のピースだけはめられていないパズル、それに、足が片方しかない昆虫だとか、もとから足がないような類の虫の標本の数々―。
 

 そこはロイヤル・オペラ・ハウスの舞台の上だった。少女が白い見事な衣装に身を包み颯爽とトウシューズでスポットライトの中心まで歩いてくると、観客たちは息を飲んで彼女の次の動きを見守った。彼女がその綺麗な細い二本の足を繊細に動かし踊り始めると、そこにいる全ての人達がうっとりと彼女に見惚れた。踊りながら彼女は、いいようのない幸福感に包まれた。目の前に広がる無数の観客は、ほかの誰でもない、彼女だけを見ているのだから。
 
 
 何かが視界の隅でちらついたような気がして、長いことナイフの先の虫に合わせていた目の焦点をずらした。
 少年が窓から少し身を乗り出して下を覗き込むと、マンションの前にある公園で、一人の少女がバレエのステップを踏んでいた。観客はひとりもいない。けど、とても美しかった。彼がこれまでの人生で見た、この世界に起こった出来事の中で、一番美しいことのように思えた。それは今まで、経験したことのない感覚だった。内側から心臓が体に楔を打つように高鳴った。
 少年は部屋を出た。
 エレベーターは止まっていた。
 永遠に続く鍵盤のような角ばった螺旋の階段を、よろけながら、ふらつきながら、おかしな足取りで降りていった。

 少年は、走って駆けつけたりはしなかった。ゆっくりと、忍び寄るように近づいていったっていうほうが近い。マンションの門を開けて、信号を渡って、青々とした緑の生け垣を越えて、ボールで遊ぶ子ども達をどかして、そこら中に浮かんでいる風船をひとつひとつはねのけて、鳩の海を掻き分けて、ブランコをひとつづつ揺らして。
 
 やっとのことでそこに辿り着いたときには、もう随分時間が経ってしまっていた。 だってしつこいけど、ゆっくり、本当にゆっくり近づいていったから。

 だけど、彼女はちゃんとまだそこで踊っていた。どこか違う世界にいて、違う景色を見てるみたいに、目を軽く閉じて。時間の概念自体、そこに存在してないんじゃないかってくらい。
 どこからか、交響楽団の演奏が聞こえてくる。
 その姿は、まるで羽が空からひらひらと舞っているようで、それじゃなきゃ…天使とか、そんな言葉しか少年には思い浮かばなかった。こんな完璧なものは見たことがない。彼女のきれいな細い、二本の足の動きに合わせて、薄いシフォンのスカートがふわりと波打って揺れている。優しく閉じられたまぶたから伸びる黒い睫毛は長く、その肌は、涙が出るくらい白くて、美しくて、それで、なんだか同時に、悲しくすらなった。
 
 彼女がポーズを決めて、優雅にお辞儀をし、ゆっくりとまぶたを開くと、そこには、茶色をした、ちょっとばかり色素の薄い、少年の瞳があった。
少年は急に居心地が悪くなって、太陽の光もまぶしく感じて、ポケットに手を突っ込んでぐしゃぐしゃしてコインをひとつ取り出すと、少女の足元にそれを投げた。そしてそそくさと、けれどのろのろと歩いていった。だけど、すぐに呼び止められた。

「ねえ」
 答えない。
「ねえってば」
 振り返る。
「これ、いらない。これ、私の仕事じゃないし、ただ踊ってただけだから」少女はそう言うと、少年にコインを差し出す。
「でも、すごくきれいだったから」
「ありがとう。でも…ほら、その辺にいる銅像のふりした人たちとか、変な格好して見えない壁と戦ってる人やなんかと違って、私、ただ自分が踊りたくて踊ってただけだから」
「いいからさ」
少女は戸惑う。
「…音楽とか、かけないんだね」と少年。
「そのほうが自由でいいでしょ。私は自由が好きなの」
 少年は、ぶっきらぼうに頷くとも頷かないともよくわからないような頭の動かしかたをして、ポケットに両手を突っ込んで、またあの例のおかしな足取りで歩き出す。
「ねえ、学校は?」少女は近くのベンチに座る。なにか話を続ける気らしい。少年はなんだかどうしていいのかわからなくて、少し迷ったけど、しょうがなく自分も隣にある別のベンチに座った。
「なんでそっちなの?こっちに来れば」少女は笑っている。少年はのそのそと移動してきて彼女の隣に腰を下ろす。
「学校は?行ってないの?」
「あのさ…」少年はちょっとだけがっかりしたような表情を浮かべる。「ぼくがそんな歳に見えるの?そんなこどもっぽいかな?」
「違うの?実は結構いってる?」
「いや、そうだけどさ」少年はしょうがなく認める。
「じゃ、学校は?」
「行ってないよ。最近はね。つまんないから。君は?」今度は少年が尋ねる。少女は驚いたような顔をする。
「私?そんな歳に見える?」
「あんまり変わらないだろ?」少年の言葉に、少女はただくすくすと笑う。
「僕の何がおかしい?」
「おかしくなんかないよ。全然」
「本当?」
「うん」
 そう、このとき彼女は、たしかに『うん』って言っただけだった。だけど、少年はそれがなんだかとても嬉しかった。彼女がおかしくないって言えば、もう本当に、おかしくないような気がしたのだった。

<『クリーピー・ボーイ』#2へつづく>

  

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