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『夏をあきらめて』を、諦めて

サザンオールスターズのCDを友人宅で聞いて、いわゆる“しびれた”経験をしたのは、中学1年の時だった。
「君だけに夢をもう一度」という、いわゆるA面のカップリング曲だった。
キラキラしたビジュアル系の音楽とは毛色の違う、リアルな歌詞に鳥肌が立った。
例えて言うならば、同じ“夏”を歌っても、白い波、暑い砂浜と弾ける恋を歌うのではなく、転がっている蝉の亡骸、汗の染み付いたシャツ、肌に刻まれたシーツや畳の目の跡、煙草の香りの息、そのようなものが漂ってくる感覚だった。
いわゆる、性の目覚めに近いような感覚。だとすれば、自身の変態性は、そのときに目覚めたのかもしれない。

その時自覚した“変態性”を、よりクリアに認識したのは、高校に入学して、谷崎潤一郎の『陰影礼讚』を読んだ時、そして、同じくサザンオールスターズの「夏をあきらめて」を聞いた時だった。
研ナオコに提供していた楽曲だったのだが、夏を楽しむつもりが、にわか雨に見舞われてホテルに逃げ込む男女の姿は、淫靡な体験も匂わせながら、恋の終わりの予感も彷彿とする。私にとって、まさに『陰』の美しさだった。
この舞台である鎌倉や江ノ島に行けば、きっと物語の断片を拾えるに違いない、と信じていた。

二十歳の時、新宿近くに住む友人にお願いして、鎌倉に連れていってもらった。テストが終わった、アルバイトも休みの短い学生の夏休み、八月の終わりのことだった。
薄曇りの海がそこに広がっていた。
華やかな物語や、ドラマが繰り広げられている訳でない、誰もいない、ただ、秋の始まりの波打ち際だった。

物語は、特別な場所で始まるのでない。
とても身近なもので、キャッチできるかどうかは、作家の感性によるもの。
それを目の当たりにさせられた。

『夏をあきらめて』のような世界を、この年まで私は体験できなかったし、描くことをできなかった。

でも、不惑を越えても砂浜に漂着する桃色の貝のように、点々と転がっている物語は見つけられる。

ウィルスの変異する浮世に翻弄されても、人の営みはマスクに阻まれても、それは延々と続いている。
『夏をあきらめて』の世界は諦めたが、人の原始的な営みを私は諦めない。


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