Madono Kotoko

イスラームとスーフィズム、トルコがすきな大学院生です。たまにトルコに行きます。翻訳(主…

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イスラームとスーフィズム、トルコがすきな大学院生です。たまにトルコに行きます。翻訳(主にトルコ語著作から)、エッセイ、旅の記録、写真などを不定期でシェアします。

最近の記事

翻訳ノート(2)ー「虚偽」(bâṭıl)

● 虚偽(bâṭıl)باطلとは何か?(翻訳ノートより)…根拠のないもの、誤り、不当な(妥当ではない)、不法な(合法ではない)、空虚な (En.) nugatory, vain, futile, false, absurd, groundless, worthless, invalid ・Kubbealtı Lugatı 1) 正当なものでない、事実とは関係のないもの(Doğru ve sahih olmayan, gerçekle ilgisi bulunmayan

    • 翻訳ノート(1)ー「虚栄」(riyâ')

      ニヤーズィー・ムスリー『存在一性論考』についての覚書  『一性の書』(Vaḥdetnâme)あるいは『恋焦がれる者たちの贈り物』(Tuhfetü’l-‘uşşâḳ)とも呼ばれる本書では、クルアーンの章句やハディース(中にはダイーフなハディースと見られるものも含まれる)に対する神秘主義的な解釈や先代のスーフィーたちによるオスマン語やペルシア語、アラビア語の詩句の引用とともに、存在一性論に基づいた世界観が説かれる。本書においてムスリーは、一貫して「真理なる御方」つまり唯一なる神

      • 翻訳ノート(前夜)

         今年度は(1)翻訳、(2)博論、(3)フィールドでの体験を文章にすることをまず目標とすることにしました。何となく博論を2番目に置いてしまっています。これをやらずして前に進めない気がすると思い立ち、敬愛するニヤーズィー・ムスリーの『存在一性論考』(Risâle-i Vaḥdat-ı Vücûd)をここ最近とくに集中して翻訳しています。できれば秋くらいには完成させたいです。  というのも、コロナ以降「死」を本気で意識するようになり、最近でも色んな人の訃報を聞くたびにいやでも自

        • いきりっき2号〈トプラック〉刊行!

          トルコに関する読み物「いきりっき」(ikilik)の2号目が刊行されました。 「いきりっき」は同じトルコ研究者である今城尚彦さんと一緒に、トルコに関するエッセイや翻訳を発表する場を作りたいという願いから始めたシリーズです。初号〈エルマ〉は去年の6月に発表しました。 「いきりっき」というのは、トルコ語で2であるもの、二元性、二つ分の、とかそういう意味です。この読み物は2人の書き手から生み出される「デュオ」なのだという意味で命名しました。(あまり深い意味はないのでした) 相

        翻訳ノート(2)ー「虚偽」(bâṭıl)

          エッセイ(1)

          トルコに来て3ヶ月、あっという間に過ぎてしまった。 心配だった滞在許可証(イカメット)の申請も順調に終わり、ちゃんと1ヶ月後には雪の日にも関わらずちゃんと手元に届いた。(感謝・・・) 手に届いてから家で小躍りしていたら、同居人に「ほらね。あなたがここのところずっと具合悪かったのもこの国や人に対する信頼のなさゆえでしょ。でもちゃんと来るものは来るのだから、心配しすぎることはないんだってば」とすかさず突っ込まれた。 12月24日、ファーティヒにある移民局へ早起きして行き、ピ

          エッセイ(1)

          歌詞の試訳(1)

          ヤセミン・クムラル(Yasemin Kumral, 1954~) 70年代から活躍中のポップ音楽歌手。 彼女のレパートリーの中には、ボブ・ディランの「風に吹かれて」をトルコ語によって解釈しなおした曲「君よ私を忘れないで、私も君を」(Ne Sen beni Unut Ne de Ben Seni)がある。 60-70年代のフォークロックの影響を受けながらも、後年になるとメヴラーナなどのスーフィズム思想に影響を受けた(と思われる)宗教的なモチーフを歌詞に組み込んだ音楽を発信

          歌詞の試訳(1)

          聖者参詣(2) ヤフヤー・エフェンディ

          イスタンブルに眠るスーフィー聖者といえば、アジア側ウスキュダルのアジズ・マフムト・ヒュダーイー、ヨーロッパ側ベシクタシュのヤフヤー・エフェンディが特に有名どころかと思います。 11月中頃、友人からのお誘いがあり、早速ヤフヤー・エフェンディの許へ行ってまいりました。誰かと一緒に行くと毎回色んな発見があって楽しいです。お参りさせてもらうのは今回が2回目でした。 *** ベシクタシュの海岸沿いの喧騒を抜けて、オルタキョイへと続く並木道をすすむこと約10分。それから標識が示すま

          聖者参詣(2) ヤフヤー・エフェンディ

          2021年10月31日よりトルコ滞在中

          久しぶりの投稿になってしまいました。一つのことを継続することは本当に大変ですね。書きたいことは山々あるのですが、その前にワンクッション入れとこうと思います。 タイトルにもありますように現在トルコに滞在中です。 2019年の夏に帰国して以来、コロナとか何とか色々あり来れていませんでした。ついでに言いますと、今年の9月に日本学術振興会DC1の採用期間も終了し(ありがたいことに半年延長していただきました)、正直10月以降の予定が何もなく、バイトを探さなければと何となく考えていま

          2021年10月31日よりトルコ滞在中

          講話集(5)

          だいぶ間が空きましたが、唐突に投稿します。 いつも思うけど、翻訳すると地の文の味が消えて、言葉が分解されていく感じ。(修行が足りない~) 今さらですが、意訳も多々含みます。その辺は練習中なのであしからず…。 ここのところ、わたしは研究者として何がしたいのかなという初歩的な問いに立ち返されることも多く、そんな中で、ひとりの優れたスーフィーが異国のスーフィズム研究者に対して言及したこの箇所はなかなかグッときました。結局、ケナン・リファーイーはニコルソンに対して、良いも悪いも

          講話集(5)

          講和集(4)

          久しぶりの投稿、久しぶりのケナン・リファーイーの『講和集』(470-471頁)の抜粋の翻訳にチャレンジしてみます。 愛しさのなかでふと立ち上ってくる怖さ、ある種の恐怖感について考えている。美しい石とか、動物の清らかな瞳とかそういうものの中にあるような畏ろしい感じ。わたしたちの言葉がイデアの世界にあるもの(まだばらばらになっていないドロドロとした世界)を表していく時の緊張感や、詩的なものから真理的なもののにおいを受け取った時に本能的に危険だと忌避するような心の動き。魂が吸い取

          講和集(4)

          長崎の旅(2)

          ②新地中華街から出島へ まずどこへ行くべきか迷った末、宿泊先から近かった中華街から見ることに。ちゃんぽんは中華なのか?と思いながら。 ビルにはりつけられている翁がかわいい。 出島へむかう途中に出会った、南蛮えびす像。コスモポリタンの面影を感じる。かわいい。 ★ そして、出島へ。 \橋を越えた先に見えるのが出島である!/ 以下、パンフレットにかかれていることを要約↓ ----------------------------------- ・1636年、徳川幕

          長崎の旅(2)

          長崎の旅(1)

          ちゃんとした国内旅行をしたので思い出を記録したいと思う。 今回の旅先は、 長崎県長崎市と 福岡県太宰府だったが、 メインで観光した長崎市に限って、写真とともにふりかえりたい。 ★ ①坂道を歩く とにかく坂が多かった。その不思議な地形に驚く。 ボランティアで観光案内しているおじさんによると 「長崎で平らなところはほとんど埋め立て地。長崎はもともと坂ばかりで起伏が激しいところだったけど、海外との交易がはじまってから整備された」 とのことだった。 わたしの故郷

          長崎の旅(1)

          ニヤーズィー・ムスリー『詩集』(2)

          195番 私は思っていた、私にはこの世界に一人も友がいないと。 私は私を捨てたのだ。見渡せば、神以外の誰もいない。 自我からの解放を成し遂げると、「私」は無くなり、神と一体化する。分離した個が集まったものだった世界が、神の存在が偏在する、一に統合された世界に見えるようになる。 あらゆるものを見ては思っていた、棘はあるのに薔薇がない。 今は世界がすべて薔薇園になって、棘はひとつ残らず消え去った。 何を見ても、欠陥が目についてしまう。修業を終えた今は、目の前に広がる世

          ニヤーズィー・ムスリー『詩集』(2)

          ニヤーズィー・ムスリー『詩集』(1)

          色々あって更新が滞ってしまったけど、また新しい気持ちではじめるつもりで、わたしの敬愛するムスリーの『詩集』から、ランダムに引いたところを訳します。 25番 親愛なる御方の美しいお顔を見ては わたしは呼ぼう、友よ、友よ。 ひとつひとつの心になり給う貴方を わたしは呼ぼう、友よ、友よ。 貴方の愛に満たされて 禁欲の道で過ちを犯し 絶えず愛の酒の虜になって わたしは呼ぼう、友よ、友よ。 マスジドで、酒場で 家で、廃墟で カーバ神殿で、偶像崇拝者たちの寺院で

          ニヤーズィー・ムスリー『詩集』(1)

          講和集(3)

          「神はすべてのものより前に理性をお創りになられました、と言われることの意味とはなんでしょうか」という問いに対する答え。 すべてのものにはそれぞれ目的が与えられている。例えば、いくつかの木の目的は、実をもたらすことである。一粒の小麦にも、葉っぱや枝、穂があると自然に想像できるように、理性にもすべての存在世界と宇宙が付随しているのだ。どの植物も木も、自らの種子がのぞむ姿で表われ出でたのと同様、人間も、生まれる前に心の種が要するものを、生まれた後のこの世界で心の中心に据えるだろう

          講和集(3)

          講和集(2)

          当然のごとく、連続でケナン・リファーイーに関することをシェアしていますが、まだまだ続きます。というのも、今年の夏にお世話になっている方々から、ケナン・リファーイー関連の本をいくつか頂き、さらに彼の命日の集会にも参加できたという経験もあり、ちょっとずつ勉強しています。 命日の祈祷式の会場になったシェフザーデモスク(2019/7/7) ケナン・リファーイーの『講和集』、とてもやさしい言葉遣いで、読みやすくてお気に入りです。回りくどい表現がなく、それなのに奥行がある。うまく訳せ

          講和集(2)