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講話集(5)

だいぶ間が空きましたが、唐突に投稿します。

いつも思うけど、翻訳すると地の文の味が消えて、言葉が分解されていく感じ。(修行が足りない~)

今さらですが、意訳も多々含みます。その辺は練習中なのであしからず…。


ここのところ、わたしは研究者として何がしたいのかなという初歩的な問いに立ち返されることも多く、そんな中で、ひとりの優れたスーフィーが異国のスーフィズム研究者に対して言及したこの箇所はなかなかグッときました。結局、ケナン・リファーイーはニコルソンに対して、良いも悪いもジャッジしてなさそうな印象で、そこがすごくいいなって思いました。目線がフラットな感じ。探究の道にある限り、どんな誤りも神からすればわずかなものだよ~というメッセージです。


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『講話集』(53頁)より


イギリスでニコルソンという名の学者が9年で3巻本の聖なる『マスナヴィー』の注釈書を書き上げたということを受けて、その完全な完成のためにはさらにもっと長い年月をかけるべきという意見が出た。
〔師ケナン・リファーイーがおっしゃるには、〕「その人物は、最低でも20年研究し精査した末にやっと注釈を始められたという。その後もあれほどにこの役目に専念し尽力したことからして、完全に天職として自らをこの役目のために捧げたと見える。もし、精神的な喜びを感じていなかったとしたら、これだけ職が選べる中で、このような役目をわざわざ選んで専念するようなことがあるだろうか?種は種に傾く(=「類は類を呼ぶ」的な?)ようだ。その者の決定も、感覚や喜びについても同様に〔本来もって生まれたものに自ずと向かっていく〕。さて、そのような人を、彼がどんなであれ、ムスリムではないと我々は言い切れようか?彼はムスリムである、もっと言えば真のムスリムである。」


〔弟子のひとりが言うには〕「〔『マスナヴィー』の〕校訂と注釈に一生を捧げるようなら、完全人間や精神的な〔素養のある〕注釈者から知識を授けられていれば、おそらくもっと身を削ることなく成し得たでしょうに。」


〔師ケナン・リファーイーが答えるには〕「なぜ彼の成すことすべてを認められないのだ。〔神は〕彼の身にもかの地から顕現されたのだ。それに、全員の階位が一つになることはあり得ない(=各人の達するレベルはそれぞれ異なるということ)。そのように高慢になってはならない!」
「本質的なことを言えば、その人物がそのような役目を果たすということは、自らの階位における真理を探究することを意味する。聖なるハディースでも『探す者は、その途で懇願すれば見出すであろう』と仰せの通り、彼のなす努力もまた“探す”ということである。必ずアッラーもお許しになることだろう。」
「ある日、神の使徒―彼に祝福あれ―がマスジドにいらっしゃる時、口に泥のかけらをくわえた一羽のツバメが中に入ってきて、悲鳴を上げたらしい。我らの使徒は、隣にいた者たちに『お前たちには分かるか、あの鳥がなにを言っているのか』と尋ねられた。『どうぞ仰せになってください、神の使徒よ』と促すと、我らの使徒は『この鳥は、“わたくしは紅海をこの泥で覆いたいのです。それは可能でしょうか”と問うておる。無論、不可能である。人間、あるいはすべての知者の不足や誤りも真理なる御方の慈愛の海に比べれば、この泥のかけらほどのものだ。かれの慈愛の海とは、すべてを包みこむものである』と仰せになった。そして、そのようにおっしゃった後、涙を流されたという。」
「同様に、しもべ〔たる我々〕は、〔主人たる〕真理なる御方の慈愛の海に許しを求めることをやめてはならない。王たちの扉を前にして、失望することがないように!優れた者たちと共にあれば、何事も容易く進む。」

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