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『NEEDY GIRL OVERDOSE』と、オタク

眩しすぎる。そんなに純粋に、夢だけを、好きなモノで溢れた世界だけを見る勇気なんて僕にはないのだ。僕は、自分の恋人に「好き? 好き? 大好き?」なんて尋ねることが無いままに死んでいく。恋人同士の、いや人間同士のコミュニケーションなんて、芯の部分だけで見ればそれしかないことをレインに教えられたというのに。きっと、気の利いた言い回しで愛情表現ゲームに興じるだろう。虚飾だ。理性だ。しょうもない。けれども、そうするしかないのだ。「彼女」と「彼」のように、本書に登場する数多の素敵な人物たちのように、本質だけで喋ることができるほど、僕らは完成されちゃいない。

にゃるらによるR.D.レイン『好き?好き?大好き?』解説

今更説明が必要か分からないが『NEEDY GIRL OVERDOSE』というのはにゃるらというサブカルインターネットインフルエンサーが作ったインディーゲームである。メンヘラ彼女の「あめちゃん」を1ヶ月で100万人登録者「超てんちゃん」にすることを目標に、プレイヤーはあめちゃんと協力しながら人気配信者を目指す。

だが、『NEEDY GIRL OVERDOSE』の核となっているのが上記のような説明ではないことはなんとなくわかると思う。『NEEDY GIRL OVERDOSE』において重要なのは「あめちゃん」との「擬似」コミュニケーションである。その証拠に、私たちはこのゲームをプレイする際に注意のほとんどを「あめちゃん」のメンタルに注ぐことになる。「あめちゃん」には「ストレス」「好感度」「病み度」の3つのゲージがあり、この3つのパラメーターを上手い具合に調整することによって、具体的にはデートに行ったり映画を観させたりTwitterをやらせたりセックスしたりODさせたり病院に連れて行ったりすることによって、一ヶ月間を何とかやり過ごし、エンディングを迎える。『NEEDY GIRL OVERDOSE』には様々なエンディングが用意されているが、それらはそういったコミュニケーションへのある種の「採点」として機能しているのである。

そして、そういった「コミュニケーション」というのが端的に言えば現在の「配信者文化」のカリカチュアとして受け取られ、それが『NEEDY GIRL OVERDOSE』を大ヒットさせ、かつ批判に晒されたという事実は今更疑うまでもないだろう。しかし、「批判」には、なにか空を掴むような虚しさを僕は感じる。それは製作者の、作品の、もっと言えば時代の空気の手のひらの上を転がされ、筋書き通りのクリシェを吐いているだけのような感覚である。『NEEDY GIRL OVERDOSE』をやった人間であればこの感覚をわかってくれるのではないかと僕は思う。なぜならこの虚無は作品に予め埋め込まれたものだからである。

今井晋は「NEEDY GIRL OVERDOSE - レビュー」の中で「現実文化をテーマにしながらも今ひとつ踏み込めていないストーリー」ことをこのゲームの欠点として挙げている。

もちろん、本作は現代の配信文化の風刺として意図されたものである。プレイヤーと雨ちゃんの関係性は、視聴者に媚びつつも裏垢で毒づく「配信者」と、配信者を煽って操作しながらも時には本気でガチ恋したりキレたりする「オタク」という関係をゲーム的に表現しなおしたものとして理解できる設定だ。とはいえ、現代の配信文化におけるこの共依存的とも言うべき関係性は極めて不健全なものではないだろうか?

いや、私は何も不健全なものをゲームにしてはならないという説教をしたいわけではない。本作の問題点は不健全な題材をゲームにしたことではなく、この不健全なゲームプレイに対してプレイヤーが自覚的になる契機を含んでいないことにあるのだ。というのも、本作は一貫してプレイヤーキャラクターの描写は薄く、バッドエンドにしろグッドエンドにしろ、プレイヤーの分身たるプレイヤーキャラクターが自らの行動に疑問を持つ仕掛けが極めて少ない。各種エンディング画面で表示されるダイアログボックスでプレイヤーに対する問いかけがなされるが、雨ちゃんに対して薬物乱用や性的な内容の放送をさせてきたプレイヤーに対する牙の向き方としては極めて手ぬるいものだ(話は別だが、本作はある意味で90年代の悪趣味系カルチャーを引きずっているようにも思える)。結果として本作で描かれるのは徹頭徹尾、超てんちゃんとして見世物になる雨ちゃんの孤独な奮闘でしかない。

今井晋「NEEDY GIRL OVERDOSE - レビュー」 太字は砂糖

今井の批判は極めて「倫理的」で「正しい」。しかし、『NEEDY GIRL OVERDOSE』に「倫理的」で「正しい」批判を向けることは、それ自体がこのゲームの持つ構造にミスリードされているのである。どういうことか。

そもそも今井のような評価がなされるにはプレイヤー=「ピ」という前提の元に、プレイヤーに主体性を求めなければならないが、そこからして間違っている。

なぜこのようなミスリードが生まれるのか。それは『NEEDY GIRL OVERDOSE』のインターフェースが、プレイヤーの眼差しをそう思う様に操作するからである。

『NEEDY GIRL OVERDOSE』には複数の眼差しが配置されている。まず、超てんちゃんを見る視聴者の視線、次に「ピ」の視線であり、これがプレイヤーと同一化するかのようにみえる。だがこれは本当にそうだろうか。ここでこのゲームのウィンドウを観てみよう。

実際は全てのウィンドウを同時に出すことはほぼないが説明のため

プレイヤーを「ピ」と同化させるのは主にJINE(LINE)でのやり取りと自身のコマンド洗濯からなる。(今井晋もそう言っている)。実際僕たちはNEEDYGIRLOVERDOSEをプレイするとき、「ピ」になりきって(スタンプだけとは言え)LINEでやり取りし、「あめちゃん」をオーバードーズさせる。また、「配信」でもアンチコメントを削除するという、単なる視聴者とは違った立場から「あめちゃん」の配信を見る。

が、ではプレイヤーは「ピ」なのかと言えば、当たり前だがそうではない。そもそも『NEEDY GIRL OVERDOSE』が反映しているのは「配信者文化」ではなく「配信者文化」に対するオタクの妄想、でもなく「配信者文化に対するオタクの妄想」の妄想だからである。もし「配信者文化に対するオタクの妄想」をそのまま描いていたのなら、そこから何かしらの希望や絶望を示すことが説得力を持つ。なぜなら、その妄想を引き剥がし、(虚構に過ぎないとしても)ひとつの物語を提示することが可能だからだ。その時『NEEDY GIRL OVERDOSE』はとても凡庸で感動的な作品になっただろう。しかし、このゲームがヒットし、かつ批判に晒されたのは、徹底的に相対化する立場に立っているからである。当然だがそこには何もない。

『NEEDY GIRL OVERDOSE』をプレイする時僕達は意外性のある出来事にひとつとして出会うことはない。全て知っていることだからである。このゲームを「露悪的だ」と批判する声は多いが、その意味でこの批判は的を外している。なぜなら「露悪的」なのは僕達のほうだからであるし、僕たちはそれ知っているはずだからだ。『NEEDY GIRL OVERDOSE』はそれをただ反射しているに過ぎない。

「あめちゃん」を救うことは、僕たちには不可能である。たとえこのゲームに「あめちゃん」を完璧に救済するルートがあったとしても、それも所詮「オタクの妄想」の一パターンとして回収されてしまうからである。『NEEDY GIRL OVERDOSE』は虚無だが、その虚無を起点とした批判によってしか成り立たない批評は無価値である。

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