見出し画像

個人的なこと。vol.1 キドナプキディング リコリコとポスト日常系など

キドナプキディング

思い返してみると、僕が戯言シリーズを読み始めたのは確か高校三年生の秋ぐらいだったはずで、受験勉強という現実から逃避するために前から好きだった西尾維新のデビュー作を読んでみるか、と思いなんとなく近所のブックオフにあった『クビキリサイクル』を読み始めたところ一気にハマって二ヶ月ぐらい勉強もそこそこに『ネコソギラジカル 下』まで読み切った覚えがある。結果としては現実逃避には成功し受験には失敗した。

なので17年ぶりに戯言シリーズの続きである『キドナプキディング』が発売されるという告知を見ても、もちろんテンションは爆上がりしたが、その17年の重みは僕にはないため(2年ちょっとくらいしか無い)、twitterで見られた熱狂に半身で浸かりつつもどこか盛り上がりきれない自分がいたのもまた事実である。

これは『シン・エヴァンゲリオン』の時も似たようなものを感じた。僕はいつかこういう疎外感のようなものにゼロ年代コンプレックスという名前をつけたりしたのだが、まあ自分の好きなコンテンツにリアルタイムで立ち会えなかったというのはありふれた感傷でありわざわざそれを取り上げる必要があったかと言えば、正直今となってみれば特にないと思う。僕がゼロ年代が、というか西尾維新とマイナーな批評が、ごく個人的に好きなだけという話である。

話を『キドナプキディング』に戻そう。と言っても、マジな話、特に感想はない。俺の好きだった味が復刻したので食べてみたら懐かしの味だった、うまい、ぐらいで。

この作品をして西尾維新20年の集大成!というかと言われれば、多分そんなことはないし、かといって期待外れだったわけでもない。読んでもらえればわかるだろうけどとにかく戯言シリーズの読者に対するファンサービスが凄まじく、ちょろいオタクである僕はキャッキャしてた(いーちゃんが玖渚友にタッチの電子決済の設定をしてるとことか)が、特にこの続きが出るわけでもなさそうだし、二十周年にちなんだお祭り的な一冊なんだろう(西尾維新本人はあとがきで否定していたが)。

ちなみに僕のところに入っていた栞は『パパの戯言シリーズ その29 時には、反省よりも反骨を』でした。戯言遣いらしくていいと思います。好きです。

リコリス・リコイルとポスト日常系

三条しぐれさんがリコリス・リコイルの討論会を開いていて、そういえばそんなアニメもあったなと思い出した。討論会では主催の三条さんがリコリコに否定的なこともあって負の側面にかなりクローズアップされていたが、しかし意外と否定一辺倒というわけでもなくて面白かった。まだアーカイブを全部聴いたわけではないが。

僕もリコリコにはかなり否定的だった、というかはっきり言って全然好きじゃなかった上に特に語る気にもなれないアニメだったが、ここで一度僕のリコリコに関する思考を整理してみたい。件の討論会ではガンスリンガー・ガールとの対比が何度も出たようだが僕はそのアニメを見ていないのでここでは触れない。

リコリス・リコイルのエンドは、社会変革ではなく自分たちの日常を選んだのだと総括されている。リコリコを肯定するにしても否定するにしても基本的にこのラストが軸になっているように思われる。つまり肯定派は(派閥みたいに表現するのは本当はしたくないが一応程として)この判断を肯定しているし、否定派はその結果先送りされる悪にを、たとえばリコリスたちを使い潰している社会全く向き合わないことを批判している。

このことはてらまっとさんが『日常系アニメのソフト・コア』のあとがきである「ポスト日常系アニメのハードコア」で論じている問題にかなりスムーズに接続できる。ここで論じられているのは震災によって日常系アニメにおける少女たちの日常を成立させるための、さまざまな悪(災害、犯罪、政治など)から遠ざけるトポスが想像力の上で成り立ちにくくなり、その結果それまではただ緩慢と送られていた「日常」が守るべきものへと変化したということである。本文ではその例として『とある科学の超電磁砲』が挙げられているがたとえば直近の例では『まちカドまぞく』がそれに該当すると思われる。

僕はこのいわゆる震災史観をそのまま受け入れようとは思わない。ただそれを一度棚上げにした上で、それでも僕がこの論の中で重要だと思われる、そしてリコリス・リコイルにつながると考える箇所は、その「日常」というのは誰かの/何かの犠牲の上に成り立っており、それでもありふれた日常を送ることはそれ自体がある種の政治性を孕んでしまうというところである。

この構図とリコリス・リコイルはこれ以上なく明瞭に一致している。しかしその対応の仕方は先ほどのレールガンとは全く違う。御坂美琴はそう言った「悪」を引き受けた上で日常を送ることを選択するが、錦木千束はそれに向き合うことはない。ちさとはむしろそういった「悪」からは懸命に目を逸らしているように見える。人を殺さないという信条は一見すると素晴らしい。しかしそれは日本で起こる多くの犯罪者をちさと以外の人間が殺していることや、そのために使い潰されるちさとよりも戦闘力の低いリコリス達の存在や、そもそもちさとをその才能のために延命させた吉松の存在がなければ成り立たない。

もちろん、ちさとにはそう言ったさまざまな「悪」から目を背ける権利がある。しかしもし彼女がそうした場合、彼女達の送る「日常」は側から見ればグロテスクに映ることは避けられないだろう。最終回のハワイは一見様々なしがらみから離れたちさと達の平和を予感させる日常を映しているように見えるが、むしろその日常が要請する犠牲を際立たせるものになっているように僕には見えてしまうのである。

ごちうさという鍛錬

ごちうさを2期まで見た。正直一期の途中までかなりきつくて視聴をやめようかとおもった。物語はほとんどないしキャラクターはそこまで好きになれないし(これは今もそう)でこのアニメが凄まじいヒットを出した理由がわからなかった。

しかし途中から体が慣れてきたのか画面を見ている時に感じていた苦痛がスッと引いた感じが6話あたりからあった。そこからは結構な速度で見れた気がする。ただ1期と2期を見るまでにややラグがあって2期の初めの方はあの苦痛が帰ってきる感じがした。

見ている時はこの苦痛が一体なんなのか、そしてなぜそれが引いていくのかわからなかった。しかし思考を巡らせているとき僕はあることを思い出した、ある忘れていたことを思い出した。そういえばティッピーってなんだったの?

僕が思うにごちうさというアニメの強度はこの問いに、というよりこの問いを忘れさせるところにあるような気がしてならない。思い返せばティッピーがなぜティッピーになってしまったのかということについて、僕は一期の3話までくらいは気になっていたような気がするのだ。しかしそのことを思い出したのはこれを書いているたった今である。普通に考えればチノのお祖父さんがあのもふもふに変えられてしまった手続きなんて、幾つもの伏線を用意し最終話かその前の話付近でなんらかの豪華な演出を伴って明らかにされるような謎である。しかしごちうさはその謎を華麗にスルーし、巧妙に操作されるリアリティーレベルによってそれが謎であるということを綺麗に忘却させるのである。

これは一つの物語を信じないためのレッスンである。僕はアニメを見るときになんらかの物語を求めていた。しかしごちうさはそれを決して与えてはくれない。ティッピーについて説明しないのはいわばその宣言である。ごちうさを見る過程で僕は物語なきアニメを受容するのに慣れていった。まあそんなの五年前に身につけとけよという話ではある。

今回はアニメについて書きすぎた。次はもっとどうでもいい個人的なことを書きます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?