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『もにも~ど』ボツ原稿 :「物語」の否定 羽川翼について

前書き この文章について

 以下の文章は東京文学フリマ36にて配布されたシャフト批評同人誌『もにも~ど』に掲載された評論「「物語」から少し離れて――羽川翼をめぐって」の初稿であり、僕がボツにした文章です。書き上げた時は文章のクオリティーに納得がいかず結果全て書き直したので最終稿とは全く違うものになっていますが、一応初めて書いたアニメ批評だし、頑張って書いたので供養も兼ねて公開します。『もにも~ど』が手元にある人は読み比べてみても面白いかもしれません。

本編 「物語」の否定 羽川翼について

1.

 「結婚を前提に、私と付き合ってくれないかな」

 これは羽川翼が阿良々木暦に言った告白の、それも振られることが分かったうえでの告白の言葉である。
ぼくは最初に『猫物語白』を観たときにこの言葉の意味が解らなかった。なぜ告白のセリフに「結婚を前提に」というフレーズがのせられている必然性がよく理解できずにそのまま流してしまった。
 しかしこの「結婚を前提に」は『猫物語白』を見返すたび、どころか羽川翼というキャラクターを思い返すたびにフラッシュバックした。この一見なんともないフレーズが何を意味しているのかを今一度見つめなおさなければならないことをぼくは最近になって理解した。

2.

 『恋物語』において貝木泥舟が千石撫子に指摘したのは決して恋愛よりも漫画家という将来の夢が大事だという話ではなかった。貝木がそこで指摘したのは現実が無味乾燥であるという残酷な事実とそれを引き受けたうえで一回性の生きるという行為を成していくことが大人になるということだという諦観である。貝木泥舟が金にこだわるのはそれが何の代わりにでもなりかつそれ自体には何の価値もないからだったが、それは例えば阿良々木暦との恋愛を間違って絶対視してしまった千石撫子に対するアンチテーゼとして主張されている。そしてこの裏返しは物語の特にセカンドシーズンを貫くテーマである。人は何者かになることもできず運命だと思ったものは錯覚で所詮たまたまそうなったに過ぎないということをそれぞれのキャラクターたちが受け入れていく、その過程こそが大人になることでありその時に生じる喪失こそが青春なのである。
 物語シリーズは青春小説であり、キャラクターたちがそれぞれの形で大人になっていく姿が描かれる。しかし物語シリーズにおいて大人になることというのは「経験を積んで立派に成長していく」ことではなく、中学、高校生であるキャラクターたちがそれぞれの過去に向き合いその過程で人生に対してある種見切りをつけることを覚悟するという形で描かれるのだ。そしてもちろん物語セカンドシーズンの第一作である『猫物語白』も例外ではない。

 これに対し『猫物語黒』は羽川翼がそういった成長モデルを拒絶するという物語である。それは『猫物語黒』第四話の羽川翼と阿良々木暦の対話にもっとも顕著に表れている。


「お前はその性格のままで一生医いていくんだよ!変われやしねーんだ!別の誰かになれたりしないし、違う何かになれたりしねーんだよ!そういう性格に生まれついて、そういう性格に育っちまったんだから、しょうがないだろ!」

「お前って奴はこのあと、何事もなかったような顔して家に帰って、退院したお父さんとお母さんと、これまでと何ら変わらない、同じような生活を送るようになるんだ!一生お父さんともお母さんとも和解できねえ、僕が保証する!万が一将来幸せになっても無駄だぞ、どれほどハッピーになろうが昔駄目だった事実は消えちゃくれないんだ!なかったことになんかならねえ、引き摺るぜえ!何をしようが、何が起ころうが、不応は不幸のまま、永遠に心の中に積み重なる!忘れたころに思い出す、一生夢に見る!僕達は一生悪夢を見続けるんだ!」

 こう主張する阿良々木暦に対して羽川翼は

「阿良々木くんはスターにはなれても、ヒーローにはなれないよね」

「そっか なってくれないんだ わたしのヒーローに」

と応答する。
 このやり取りは羽川翼が阿良々木暦を自分の行き詰った状況を解決してくれるような、自分にとって特別な存在として位置づけようとしている。阿良々木暦はこれを拒否するが羽川翼には届かない。その平行線はラストの「いいよな、羽川。僕達、みんなロクでもないけど……すっげー不幸で、滅茶苦茶報われなくて、取返しなんか全然つかないけど……、一生このままなんだけど、それでいいよな!」という阿良々木暦の問いかけを「いいわけ、ないでしょ」と羽川翼が完全に拒絶することによって最後まで交わることなく『猫物語黒』は終わるのである。その意味で阿良々木暦が言うように『猫物語黒』が問題をただ先延ばしに下だけの話だったというのは正しい。ただしこのような結末を迎えてしまったのは何も羽川翼だけの問題ではない。

3.

 そもそもこの阿良々木暦の提案に羽川翼は原理的にのることができない。阿良々木暦の言っていることは今の軋轢を抱えた家庭環境と自分の過去を抱えたまま生き続けることでありそれによって形成された羽川翼の圧倒的な聖性という性質を保持し続けることである。しかしそれには限界が来ているということを示したのが『猫物語黒』におけるブラック羽川化であり阿良々木暦のこの主張はそもそも現実的ではない。
 そして阿良々木暦が羽川翼にこういったことを要求してしまうのは、実は阿良々木暦こそがこの時点で物語シリーズにおける成長モデルをもっとも理解していないからなのである。

 どういうことだろうか。これは『猫物語白』で戦場ヶ原ひたぎも指摘していたことだが阿良々木と羽川はある意味でとても似たキャラクターのようにも見える。
 それはどちらとも一見正義をなそうとしているように見えることである。しかしそれはその後同様に戦場ヶ原ひたぎが否定したように内実は全く違っており、それぞれは全く違った動機からそれを行っている。
 阿良々木暦が正義をなそうとするのはある種の本能として実行される。物語シリーズは彼のこの特質がなければそもそも成立しないのだが、つまり阿良々木暦は目の前に自分の正義に反すると思ったものがあれば後先考えずに動いてしまうキャラクターとして設定されている。 「お人好し」や「誰にでも優しい」というのはこのことをパラフレーズした言葉である。
 この一見ある意味で理想的なようにすらみえる阿良々木暦の性格は、しかしある重大な問題を抱えている。それは阿良々木暦の中にあるのはあくまでも「正義感」でありそれはあくまでも彼の中にあるこうあるべきという欲望に過ぎない。そしてこの欲望のままに動く阿良々木暦にはそれによってなされた責任を取ろうというつもりが全くないことである。
 このような自意識から実行される「正義」は必ず何らかの形で失敗する。それは『なでこスネイク』で千石撫子に呪いをかけた中学生まで助けようとして死にかけたことや『囮物語』において千石撫子に無理に近づこうとしてまたも死にかけたことではっきりと示唆される。特に『恋物語』のラストの阿良々木暦と貝木泥舟の会話はそれが前面に押し出されている。もう千石撫子とかかわるなと言われそれでも「千石がこんな目にあったのは僕のせい」とし「責任」を取ろうとごねる阿良々木を「お前はその娘のために何もしてやることはできないんだよ。」と突き返す貝木泥舟は、阿良々木暦の瑕疵を鋭くついているのである。
 そしてその上で阿良々木暦もう一つ彼の自意識に問題を抱えている。それは彼がそのように振る舞い結果誰かを助けたとしてもそれに対して全く自信が持てないということである。

 僕がいなくとも、(中略)誰もかれも、ほかのだれかに救われていただろう、あるいは僕がするよりも、よっぽどスマートな手際でだ。僕は確かに彼女たちの運命に関与したけれど、しかしそれがぼくである必要は全くなかった。ーーああも強く、ああもたくましく、ああもしたたかな彼女たちである。彼女たちの人生には、本当は僕なんか必要なかったんだ。
たまたま行き遭ったのがーー僕だっただけ。

(中略)

 そういう意味では、僕が彼女たちの運命に関与したというよりは、抜き差しならない僕の運命に、彼女たちを巻き込んでしまったという感が、今となっては相当強い。

p11

 上記の通り阿良々木暦は自分が誰かを助けたとしてもそれを自分がやったことだと思えない。自分でなくともそれはできたし、むしろ自分でないほうがよかったのではないか、自分がかかわったのは単なるおせっかいで、邪魔だっただけではないのかとすら思考する。
 これは一見謙虚な態度にも見えるかもしれない。自分がいたから助かったのだというのは確かに傲慢なように見える。しかしこの態度はやはり大きな欠陥を抱えていると言わざるをいない。なぜならこの自己否定は自分がたまたまそこにいたという責任を同様に放棄する事と等しいからである。『化物語下 つばさキャット』で羽川翼が阿良々木暦の誰にでも優しい態度を「無責任」と切り捨てたのは阿良々木暦がこのことに向き合う覚悟がないからである。阿良々木暦は自分が彼女たちに行き遭ったことがただの偶然であると認めている。しかしそう認めるとき彼は「もし自分がかかわらなかったら」という可能世界のほうを過度にイメージし、そのたまたまが自分だったこの現実世界を軽視してしまうのだ。
 阿良々木暦は誰にでも手を差し伸べてしまう。しかしそこで自分が手を差し伸べたということにはあまりにも無頓着である。この彼のスタイルでは彼の行なう「正義」は繰り返すが必ず何らかの形で禍根を残すことになる。その帰結として彼は吸血鬼に近づきすぎ結果一度地獄に落ちることになったわけである。
 そして上記のような歪みを孕んでいる阿良々木暦からすれば、羽川翼はあまりにも眩い光を放つ存在となる。なぜなら羽川翼は阿良々木暦が到達しようとして失敗する「正義」を難なく成し遂げているように「見える」からだ。羽川翼は何でも知っている、羽川翼はいつも正しいというのは確かに作中の描写を見ればある程度は納得できることである。
 しかし羽川翼のその完璧な仕草は阿良々木暦のそれとは全く異なる。羽川翼がなしている風に見える「正義」というのは阿良々木暦のように決して内側から湧き出るものに従って行動しているのではなく、ただ「こうするのが正しい」という法則性に従って動いているだけだからだ。もちろんそれは彼女がネグレクトされていた事実と関係する。羽川翼は過去の経緯から自分から負の感情を切り離しなかったことにすることで自己をギリギリ保ってきた。しかしその結果として彼女は自分の感情で判断するという行為ができなくなった。『猫物語黒』で父親に殴られた羽川翼がなおその父親に諭すような言葉をかけたのが最もわかりやすいが、つまり彼女は単に自分のなかのべき論で動いているのではなくそこに他者を介在させそのフィルターを通して出てきたコマンドを実行しているのだ。臥煙伊豆湖が「君は例外じゃない、君は特別じゃない」「そう言われるとうれしいんだろう?知っているよ」という言葉の裏側で見抜いていたのはつまりはそういうことである。
 しかしこの様な存在に阿良々木暦は抵抗することができない。なぜならば阿良々木暦の到達しようとして失敗し続ける正義が目の前に体現されているからであり、そのことから彼は自分を「偽物」、彼女を「本物」と形容する。
 そして「偽物」である阿良々木暦は「本物」である(と錯覚した)羽川翼に「一生変わらない」という、無茶な要求をしたのである。そこには阿良々木暦のある種運命的なものを求める欲望が埋め込まれている。「僕達は一生悪夢を見続けるんだ!」の主語が「僕達」であるのは彼が吸血鬼に行き遭った運命(偶然)と羽川翼が障り猫に魅せられた運命(偶然)を重ねているからに他ならないのである。

4.

 『猫物語黒』で成熟を拒否した羽川翼は『猫物語白』でそのやり直しを行うことになる。自分が押し殺していた感情に気が付き手紙を通じてブラック羽川と対話し、そして阿良々木暦との恋愛をあきらめることによってその試みは大方成功したように思える。「普通」を志向していた彼女は文字通り普通の女の子になり羽川翼の物語は幕を閉じる……。
 ここで最初に提示した問いに戻ろう。すなわち「結婚を前提に、私と付き合ってくれないかな」とはこのプロセスにおいてどのような意味を持っていたのか?ということである。しかしここまでくればこの言葉はあまりにも自明であった。羽川翼は阿良々木暦との恋愛をある種の必然性のなかに位置付けていた。振られることを前提とした告白はその必然性との決別であると同時に新たな一歩を踏み出す宣言である。羽川翼が「ちゃんと傷つく」ためにはこのプロセスが絶対に必要である。これを阿良々木暦に伝えない限り、羽川翼は自己と向き合ったことにならない。
 この恋愛観は貝木泥舟が『恋物語』において一蹴したそれである。「どうせ大学生になったら、あっさり別れたりするんだぜ」というのは貝木泥舟という青春を終えた大人からの、喜劇的でも悲劇的でもない現実を語った言葉である。羽川翼はこれを経験し、そして振り払うことによって『猫物語黒』で阿良々木暦が提示したものを乗り越えている。阿良々木暦は人は絶対に変われないというロマンを主張した。羽川翼はこれを跳ね返す。もちろん過去は消えない、しかしそれに向き合い正しく傷つくことによって今の自分を変える程度のことはできると羽川翼は証明した。阿良々木暦は運命の相手ではなかった。そもそも運命の相手など存在しないからである。
 羽川翼は偶然を偶然として受け止めず、それを運命として、物語として処理しようとして失敗した。それによって怪異にまでなってしまった。その瑕疵を『猫物語白』で羽川翼は乗り越えることができたのだ。羽川翼はこれで縫い付けられた翼ではなく、自分の足で歩くことができるようになる。

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