TCGの本質は自己分析にあり―巨人の肩から自分を見下ろす

もう4年前だ。有料noteというものがあり、ゲームに勝つことのノウハウを発信する人がいることを知った。MTGアリーナ(MTGのオンライン版)のランキングで1位になったので、ちょっと儲けてやろうと思った。

しかし、まだMTGをオンラインはじめて数か月、界隈での交流は皆無で、何をどう書けばウケるかわからない。ぐぐって上から出てきた記事を読んでみた。

衝撃を受けた。

評判のいいものの一つの内容には、

「サイドボーディング後にマナカーブを崩すな」

というのがあった。

MTGには60枚のデッキと15枚のサイドボードを使い、二本先取でその対戦の間に入れ替えができる。これがサイドボーディング。MTGはデュエルマスターズやShadowverseのようなマナ制のゲームであるので、バランスよく序盤から使える軽いカードや中盤終盤で輝く強いカードを入れる必要がある。マナカーブのバランスを考えるのは当たり前。サイドボーディング後も当たり前。

だからそう、なぜ衝撃を受けたかといえば、

なんでこんな当たり前のことを仰々しく書いてあるのだ?

と思ったのだ。

そんなもの、ルールを読んだだけの初心者でもわかるだろう。こんなことをわざわざ書いてあるのは文字数稼ぎに当然のことを書く質の悪い記事なのだろうか。こんなの俺のが断然有用なことを書ける、と生意気なことを思った。(そうしてできた記事を今見返すとひどいものだが、記事を書く原動力になったのは間違いない。自惚れというのは必ずしも悪いことばかりではない。)

ゲームを続けるうち、間違いに気づき、この教えは多くの人にとても有用であるとわかった。プレイヤーがサイド後にデッキのバランスを崩壊させているのをしょっちゅう目撃する。「サイドボーディング後にマナカーブを崩すな」と言いたくなるし、実際何度も仲間の練習を見て言ってきた。

なんでこんな初心者でもわかることが良いアドバイスたりえるのだろうか?いや初心者でもわかる、ではなく初心者だからこそわかると言い換えたほうが適切なのではないだろうか。

「努力は必ず報われる」なんて言う人がいる。私はこの言葉が大嫌いで、報われない努力もある、正しい努力をしてこそ報われると、ことあるごとに冷笑的に貶しているがしかし、私自身も「努力は必ず報われる」的な誤謬を犯していたのではないか。

私は元々、TCGは数学のゲームだと思っていた。ルールとカード、確率により論理的な前提が与えられる。確率計算や論理的推論により前提から結論を導く。結論とはつまり、カードの選択、プレイの選択である。前提をより高度に数理的に詰めて、論理をより深く解釈し高度な結論を導く。そういうゲームだと思っていた。

だからそう、言い換えれば、前提を解釈する、数理的に詰める、論理を詰めるという努力は必ず報われると考えていた。

いやしかし、違うのだ。それでは勝てない。数理的アプローチはすぐに限界が来る。数学的に全プレイを解釈することなど不可能ではないか。いや、それでももしかしたら、ものすごいコンピュータにものすごい電気代を注ぎ込めば最強カードゲーマーAIができるかもしれない。しかしそんなものが仮にできても人の頭にインストールできない。

結局は、ほとんどの選択肢において人間である我々が数理的厳密性を伴わずに、感覚で、ときに迷いながら、ときに確信を持って、判断を下す。数理的に前提を詰めるというのはあくまで過程における手段の一つであり、それが最終的な勝利というゴールまで導いてくれるわけではない。

では、数学のゲームでないなら何のゲームなのか?認知心理学であるというのが本記事の主張である。ルール、カード、確率などの前提はそれを理解するまでに解釈の過程が挟まる。

このとき、実際そうである世界と認識した世界には乖離が生まれる。あるいは別の物事を解釈し推論する過程で一度解釈した前提が再構築され歪みが生じる。だから、人はサイドボーディング後のデッキのマナカーブを崩壊させて、「サイドボーディングでマナカーブを崩すな」が有益なアドバイスになるのだろう。

人は誤った前提を認識し、誤った前提から導かれた結論は当然誤っている。推論ではなく物事を解釈し前提を認識する段階で誤らないこと、前提の誤りを修正することは高度な論理的推論とはまた別の難しさがある。

実在の世界と認識する世界は一致しない。不一致が判断を誤る原因にあり、その不一致部位や原因には多様性がある。この多様性がために、個々に異なる形での努力が必要で、単一の形の努力が全ての場合で望む結果を導くとは限らない、つまりは努力は必ずしも報われない。それどころか、努力の過程の誤りが認識の誤りを産みさえするから、初心者でもわかる当然のことを捉えそこなうプレイヤーが大勢いる。試行を続けると、いいことも悪いことも蓄積されてゆく。努力はマイナスになりうる。ここまで来てようやく私は「努力は必ず報われる」を正当に否定する資格を得たように感じる。

応用力のある知識とは時事性の高いTCGでは特に抽象度の高い知識であり、これが地力に繋がる。サイドボーディング後にマナカーブを崩壊させるのには何か原因があり、それは別の誤った判断を導いているかもしれない。よりよい判断を下すという最終目標により普遍的に向かうためには抽象度を上げて見るべきである。「サイドボーディング後にマナカーブを崩すな」の教えの抽象度を上げるならば、「前提を誤るな」だろう。あるいは「世界をあるがままに見よ」、「認知バイアスを取り除け」というのもいいかもしれない。そのためには、自分あるいは人間という生き物全般がどのような傾向を持ちどのようにして判断を誤るかを分析する必要がある。また、前提として当たり前のことを当たり前に認識することは難しいという事実を知っておくべきである。

分析するべき対象は人間であるというのが抽象化の先にある結論。人間の判断というあまりに重大で大きなテーマは多くの既存分野で膨大な研究がされている。認知心理学であったり、それと経済学が結びついた行動経済学であったり。そこに出てくるのは例えば、100ドル失わないためにした努力で200ドルを得られるのに努力しない人。カードゲームでよく見る。他には目の前にある道具で簡単に解決できる問題なのに道具の別の使い方だけを考えて問題が解けない人。これもカードゲームでよく見る。こういったおかしな判断がなぜなされるのか、カードゲーマーがするよりも大きな規模で再現性、反証可能性のある知識が蓄積されている。個人がTCGの個々の事象から人の判断を分析し、一般化し、このレベルの知見を得るのは土台無理な話である。せっかく優秀な研究者が蓄積したものを世界に公開してくれているのだから使うべきである。巨人の肩に立ち、そこから自分の脳みその中を覗き見る。

ルールを覚えてゲームに慣れて、それで始めたばかりよりは勝てるようになっているだろう。しかしある程度行ったところで、実力の向上を律速する要素は別になり、それを解決する方法はそれまでの練習とはまた別の視点が必要になり、その答えは大抵既存の科学にある。カードゲームに勝ちたければカードのことを考えるのをやめよ、とまで言うと煽りすぎだが、闘うべき問題は卓上ではなく自分の頭の中にあり、その解決方法はこれまた卓上ではなく図書館にあることが多い。新セットが出て練習して、なんかうまくなった気になって、また新セットが出てリセットされる…というループになっても仕方がない。

15年ほど前、勉強が嫌いで、周りに合わせるのも嫌なのに自信もなく劣等感にまみれてカードゲームをやっていた。なんだ勉強ができてもカードが弱い、勉強ができてもバカじゃないかと周りを見下すことで自尊心を保っていた。そんな私がカードゲーマーとして、今学ぶことの重要さを説いているのは何かすごい皮肉な気がする。が、好きなことを通じて食わず嫌いしていたことの楽しさ、尊さに気付いたといういい話だということにしておいていただきたい。

学ぶことは役に立つ、そして好きなことはよく身につく。だから、いろいろなことに興味を持ってちょっと深堀りして、食わず嫌いせず科学を学んで、ちょっとだけ頑張って勉強して好きなことと結び付けてゆくといいと思う。自分がしたような、好きなことを通じて科学の面白さに気付く体験をしてもらえるものにしたいと考え科学とTCGを結びつける記事を書いていきたいと思っている。

説教臭くてうざそうな主張になってしまったので、おっぱいって言って終わろうと思います

おっぱい

おもろいこと書くやんけ、ちょっと金投げたるわというあなたの気持ちが最大の報酬 今日という日に彩りをくれてありがとう