オルゴールは夜に鳴る
人を嫌いになる度に、私が私から遠のいていく。
人の不可解さの中に私の不可解さを見出したのだ。
誰かを嫌いになるとは、想像力の限界であり自身の限界であり、つまりは自己疎外に似た苦さを味わうことだった。
一寸の隙間も許さないようにきつくカーテンを閉めるたび、それは何処までも追って来る。
想像力の限界と自己疎外。
おしなべて人間関係とは、他者がその生において受けた何らかの負債・・トラウマ、癒えぬ傷、被虐待の名残による種々の歪さ・・を、自分も引き受ければならないという不条理なコミュニケーションを前提とする。
(だから大体の人間は自己満足的に人を傷つけることもあろうし、そも、どうしようもなく不可解なのだ。)
そして人間の持つ非合理さを「すべての行動には(理由の分からない)理由がある」として平らかな形で受けいれられるかは自身の想像力次第。
ここで事あるごとに想像力を放棄し他者の拒絶を繰り返してしまうと、遂に孤立してわけの分からぬ妖怪となり果てるのは自分自身の方。
他人に失望しているようで皆みずからに絶望している。
その夜は乱暴にカーテンを閉め切った。
ひとり孤独を噛み締めるとき、人は最も素直になれる。
透徹の蝶がきらきらと宇宙を舞う夜に振り落とされた鱗粉のごとき惨めな命をじっと凝視める夜があるということ。
小石を投げ込めばさみしく響き渡るような美しい泉を誰しもが湛えているということ。
その泉は至高のメロディーに魅かれるが如く水源を分ち合っている。
それが私たち。
ひとを流れるひとつの泉。
私たちはみな、本来無個性の尊い<あなた>。
私は<あなた>を探してる。
きみの中に、彼の中に、あの子の中に、私の中に、おなじ泉が流れているのを信じてる。
姓と名の向こう側、カードみたいに軽佻浮薄なアイデンティティの向こう側、おなじ命の流れているのを信じてる。
<あなた>という純粋意識。
他者の振る舞いに対して病む前に、その奥にいる<あなた>とこそ手を繋げたら。
私が私を抱きしめるとき、私は一番遠くにいる。
この身の中身は自分だけが識り得ないという疎外ゆえ。
だからこそ、どうか<あなた>と呼ばれたい。
彼という仮小屋に、あなたという仮小屋に、あの子の住まう仮小屋に、そしてこの仮小屋に注がれた、普遍の<あなた>。
個性や立場ではなく”この命”が呼ばれることを待ちわびている。
傷つく、とは肥大した自我の特権。
ひとが傷つきうるその傷の浅さを"繊細"と呼ぶのなら、投げられた小石の音は遂にうつくしく響かない。
繊細さとは単なる表層でしかない。
深みに沈む純粋の<あなた>には届かない。
(昇る朝陽に駆け出したくなる気持ちは誰しも同じ、それだけで親しみ合えると密かに願ってたのに。)
文字を打ち続ける。パソコンの熱が部屋に籠もってどうにも苦しい。
遮光カーテンと窓を開けると、ひんやりとした三日月と共に涼しい風が入り込む。
「生きる」とは、繰り返す疎外からの復帰なのかも知れない。
命ある限り自分で自分を諦めてはいけない、と。
夜明けの光よ切り裂けよ。
溜め息と停滞の曇間から、まぶしく響け夜明けの鐘よ。
個性なる"もぬけ"を溶かし、純粋なるをいざ照らせ。
「さみしいな、」
いつか誰かのフラクタル。