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"あなた"の深みへ
私たちは皆、かけがえのない存在だ。
いかなる詭弁を弄されたとしても、それは覆されてはならない。
私は、正にそのために文章を書き続けている。
だから私たちは、互いを限りなく尊重しようとして、親から与えられた名前で積極的に呼び合い、時には囁き合う。
けれども私は思うのだ。いかなる呼び名で呼ばれようとも、私の最内奥に潜む魂には決して触れ得ない。わたしの名前を呼ぶ声、しょせんそれは海底から眺める遠い光のようなもの。
「名」は真に"わたし"ではない。寧ろその人の本質(魂)を覆い隠す不純物そのものなのだ。
先日、私は音楽を流し聴きしながら黙々と雑事をこなしていた。
そのさなか、私はふと流れてきた歌詞のある言葉の凄味に圧倒されてしまった。
人生は悲劇ですか? 成功は孤独ですか?
僕はあなたに あなたに ただ 会いたいだけ
「あなた」という呼びかけの混じり気の無さ、純粋さ、 目の前の存在へ肉迫しうる鋭さ、その貫通力。
誰へともなく「あなた」という言葉を口ずさんでみる。なにか存在の深みというか、人の心の暗がりに小石をひと粒投げ入れるかのような、不思議な波紋の気配を、私は感じた。
例えば、私が友人Aを名前で呼んだとする。
Aは「なに、」と咄嗟に返事をよこすだろう。
けれども、Aの名前とAの"本質"との間には大きな隔たりがある。「名」はそのひとを全く表しえない。何故なら「名前」が喚び起こす種々の役割を、Aは未だじっとりと背負っているから。誰かから自分の名を呼ばれる度に、Aはみずからの名に染み込んだ人生、その名を負う者として付与された役割をも呼び起こし、それに相応しいAを演じてしまうから。
("自分"らしく振舞わなくては、年上として毅然としなくては、場を楽しませなくては、しっかりしなくては、)
「名」という個人的/社会的役割の、それはかりそめの城。その分厚い壁に閉じ込められた、"あなた"という真実処、本質、唯一無二の魂が隠るばしょ。見え隠れする、光の気配。
創造が愛の行為であるならば、われら被造物の愛とは、それぞれの直観によって、おなじ被造物を互いに見透かし合うことだ。
「あなた」、
それはまるで、無差別に匿名的に一切の存在を指し示すだけの、謂わば水で薄めたような代名詞。それでいて(それ故?)、あらゆるひとの核心をそれぞれに突き抜け、矢で射たような貫通力を持つ。まるで"ひとつはすべてである"、と云わんばかりに。
(大事な話のさなかや、親しい人と過ごしているときに何気なくそう呼びかけられたらぎくりとする。)
「あなた」、
深長な響きだと思う。
社会的地位や属性や容姿や能力といった一切を切り棄てられ、羽を毟り取られた鶏のごとき無防備にさせられる。
「わたしが呼びかけているのは、会社員でも友人でも内気でも読書家でもないアサギマダラでもない、あなた、そう、"あなた"ですよ、」と。
否否、私達の本来は匿名なのだ。匿名であっても尊重されなければ、ほんとうに尊重されているとは云えない。
ささやかな音楽体験を通して、ふとそんなことを思った。