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存在について(1.生者の努め)
存在とはどのようにして存在しうるのだろう。
お気に入りの音楽を聴いているとき、私は最早そこにいない。
"それ"について考える時、"そこ"に私はいる。
(そこ以外にはどこにもいない。)
"それ"に依って考えられるとき、"そこ"に私はいられる。
(それに依ってしか、私はいられない。)
互いを映し合い、互いを想い合う。このことによってしか存在は存在出来ない。誰一人聞く者のいないメロディがメロディとして成立しえないように、私たちは誰かに再生されるのを待ち続けるちっぽけな音楽として、甘んじてそこに居続けるしかないのだ。
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ペットの四十九日を目前に控えている。お骨は今もテーブルの上。
これまで色とりどりの花を供えてきた。真っ赤な薔薇、優しいカーネーション、カラフルな南国の花。買い替える頻度は2週間に1回。花屋を見て回るのは楽しいけれど、私以外の家族は供花(きょうか)についてあまり関心が無いのが気がかりだった。曰く、
『・・造花でも良くない?』
とのこと。
良くない。花は飾るためだけに飾るわけではないのだから。
造花をお骨の前に飾ったとする。そうすると、花を新調したり、日毎に水を替えたり、枯れた花を間引いたりといった手間は一切省けてしまう。
けれど、精霊流しが川を流れてこその供物であるように、手向けの花とは日々手向けられてこそ意義があるもの。確かに、死者の意識は完全に消え失せ、霧散してしまったのかも知れない。けれど、だからこそ、呼吸を持たぬ彼らへと私達が息吹していかねばならないのだ。生者の地道な継続の力によってのみ、死者の国は灯り続けることが出来るのだから。そして私たちのペット亡き今、ペットは私たちの力にこそ頼るしかない。その力の表現としての手向け花ではないか。
造花に埃が積もれば積もるほど、死者の国は陰鬱な雪に埋もれゆくだろう。
花とは生と死の象徴だ。或いはこの挟間を繋ぎとめる伝達者として。
あの世へと、花はしめやかに流される。
誰もがそれぞれの王国を持っている。その国の孤独な治者である。
だから生者の義務とは、王の途絶えてしまった死者の国を語り継ぐことにある。そして「あの世」とは、生者の努めによって灯り続ける、私達の義務を明文化したものだと思う。(だから無神論者でもほったらかしてはいけない。)
あなたが存在するための力。或いは、あなたを上手に存在させる力。
それは何も、生者と死者のやり取りに限ったものではない。生きるとは、互いが互いの調べを聞き取り合うこと。何故なら生きる者とは、絶えざる音楽そのものであるから。