空葬
学びとは、蒙昧と怒りを手放すいとなみ。
まっさらな眼で物事と向きあう為のこころみ。
しかし私の学びは私の生では完結しない。
無知が不安を呼び、不安が脅威を招き、脅威が怒りへ駆り立てる。
たとえば、眼の前に「汚な」くて「気持ち悪い」ものが落ちているとき。
手も触れず直ぐにでも排除したいと思う。許せないと思う。
けれどもそれが黴であれ糞尿であれ、生成の過程や材料を知ってしまえば、それはただ「そういう」物質に過ぎないのだと識る。
「汚い」という感情は、ものと私との縁起や相対性を捉えるには絶好のキー概念だ。
もし「私」という主観を離れることが出来れば、この世から「汚い」なんて観念は消え失せる。
単純に「私」の法則にとって、その物質の法則が不都合なだけなのだ。
ならば何を怒ることがあろう?
自分の安寧の為に学ぶこと。それは世界の安寧の為に学ぶこと。
情報は人の心を絶えずざわめいている。その水面を搔き乱すように、次から次へと焚き付けてくる。
古今東西、情報は怒りを駆り立てる道具だった。
歴史はそのようにして築かれてきた。
迷いから目覚めること。心に凝り固まった怒りをほぐすこと。その為には「空」を知ること。
そして学問とは、心の波浪を鎮め、明鏡止水へと至る為のこころみなのだ。
怒りに駆られた人間は操りやすい。彼らは「絶対真実」の虜だから。
インドの仏教詩人、馬鳴菩薩は「空に対する無知ゆえに、物事を自分勝手に分別し、ついに衆生は迷妄に陥る」と説いた。
神秘主義集団カバリストはその瞑想において、自身の肉体をセフィロトの木に見立て、自己と宇宙の本質に何ら差異無きことを確認した。
人間の「頭」に対応する第一セフィラ「王冠(ケテル)」。
それは存在の究極始点、即ち空。
この「空」のなか、物事は久遠に巡りゆく。
人よ、貴方がたは宇宙の原点にして全体であると識れ。
卑しき迷妄でみずからの王冠を曇らせること勿れ。
冬の夜空に吸い込まれる吐息。
この吐息ひとつに、宇宙のあらゆる歴史と循環が籠められている。
物事に始まりも終わりもなく、汚れや善悪や何もかもが相対であり、すべては宇宙の構成にきちんと適っている。
鏡にすべてが映るように、ただ「ある」。
・・そんなことをぐるぐる考えているうち、連日の寒さが堪えたのか風邪を引いてしまった。仕事を休み部屋で寝込んでいると、東側の窓からあたたかな陽の光が射し込んでくる。
「ゆるされている、」と思った。
背負っていた荷を下ろしたような気分だった。
何にゆるされたのだろう?
半分強制されたような日常を生き、その日常に沿った役割を演じ続けるうちに、図らずも何かを背負っていたようだ。
違う、勝手に背負っていただけだった。
(私は不安だったのだ。ありとあらゆる行く末が。)
忙しい日常と役割から逸脱したまっさらな私が、まっさらな太陽を浴びる。もはや起床の合図でも何でもない、暖かな光を。
外から聴こえてくる鳥の囀りも、最寄駅から聞こえてくる発車ベルも、その日だけは私を生活へと焦らさなかった。それはただ、それぞれの響きであった。
私の学びは私の生では完結しない。
私が分解され物質として再び構成された暁には、また新しい「空」の探求がはじまるだろうから。
(これからも変わらず。)
今ひとときは、ゆるされている。
心を疾風る波は止み、清けき水面はあるがままを映し出す。