過ぎし日が放射線状に我を結う。
近頃、「時間」というものについて思いを馳せている。
というより、時間の「過ぎなさ」について考えると、胸が締め付けられるのだ。
いまの私は、人生を懸命に歩んでいる方だと思う。自分の努力をひけらかすのはみっともないが、何せかなり頑張っているので、与えられた素質以上の成果は得られているんじゃなかろうか。
――そんな私の脳裏を時々掠める、時間の「過ぎてくれなさ」というやつ。これが私の憂鬱である。
中高生時代。当時の私はすべてにおいてやる気を失くしていた。学業はさっぱり、加えて運動音痴、そして友達らしきひともいなかった。だから「真面目で大人しい」という、今思えば何の因果があるのかよく分からない2単語を組み合わせた適当な評価を周囲から与えられ続けていた。私はとても悔しかった。
大抵、内気な学生の劣等感というのは勉学で克服されようとするものだが、私はそれすらも出来なかった。ではどうしたかというと、学校を勝手に脱け出すとか、髪の毛を衝動的に切るとか、せいぜいそんなところ。当時の私は、どんなに失望されても良いから「真面目で大人しい」というレッテルを破りたかったのだ。だから私はこういう行為に及ぶ度「ざまあみろ」と思ったものだ。(誰に対して?)
高校受験と大学受験に対する姿勢も酷いものだった。そもそもこの手の人間が受験に向けて努力などする筈が無い。寧ろそういった大事な時期になるほど、私の平凡な学業成績は降下の一途を辿っていった。
そんなの「昔の話」じゃないか。そうかも知れない。何故なら今の私はなかなかの努力家だから。
けれども。
私には私なりの時間イメージが存在している。
つまり、
「過去とは古い地層から新しい地層へと順繰りに蓄積(或いは経過)されるものではなく、"現在の私"という点を中心に、私を巡るあらゆる過去が放射線状に私を取り巻いているのだ、」というもの。
だから、"現在の私"には、"中学時代のロクでもない私"と"日がな一日勉強していたさっきの私"が等距離に存在している。そもそも過去など、蓄積してしまえばみんな同じだ。「より古い過去」「新しい過去」という位置づけが私には無意味に思えてならない。
ここで道元を引く。
(自分が考えたことは、既に先人が巧みに表現しているものだなぁ。)
時間の非時系列性は、どんなに遠い過去でも遠くへ押しやらない。この性質が尚も私を咎める一方、救いを齎すこともあるのだと知ったのはついぞ最近のこと。
18年間を私と一緒に過ごしてくれた、ミニチュアダックスのりんちゃん。
ペットのりんちゃんを亡くしてはや3週間。思い出を辿るにあたって不思議な現象が起きている。各々の記憶が時系列を失ったのだ。りんちゃんがガンの手術を受けたとき、公園での散歩中、草で隠れていた溝に落ちたとき。白内障になったとき、貼るカイロの中身を派手にぶちまけて遊んでいたとき。頂上から山の全景を眺めるが如く、過去の遠近という概念が消え去り、全てが等しい距離で思い出される。
りんちゃんが生きている間には起きなかった現象だ。何故なら、生前は「目の前のそこにいる」老犬としての現物のりんちゃんと、つまり「今」という時間における凝集点としてのりんちゃんにのみ、日々向き合っていたから。その時点では、あらゆる思い出がきちっと時系列を守って、ときどき私の中で思い出されたものだ。
けれども今、あの死だけが全てではないと思える。
りんちゃんが亡くなったことは今も悲しい。けれども、ペットの死ののちに起こった私的時系列の不可思議な解体が、大きな悲しみを和らげるための脳内の救済措置として機能したのではないかと思うのだ。
つまるところ私にとっての時間は、そして過去は、お行儀よく時系列を成すことはないのだ。この両腕が自らの周囲360度に触れることが出来るのと同じように、いつの、どんな過去であっても、常に私に隣接して存在している。それが苦しくもあり、嬉しくもある、だがそれは私の感情に過ぎない。
それ自体に良いも悪いも無いのだ。
ただ「そういう風である」、それだけ。
■おまけ。
上に挙げた道元著作の原文です。気になる方はぜひ読んでみてください。