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空暗く、誓い立つ。
これはとある絵画展に足を運んだ、とある日の心象記録。
よく晴れた正午、地方都市の片隅に佇むギャラリー。
会場が開くや否や、私はチケットを受け取り漆黒の回廊へ歩みを進めた。
眼前に並ぶは、様々な画家が様々なタッチで描いためくるめく風景画たち。
それぞれの土地の匂いや湿度、気候、生い茂る草々。その何もかもが未知であるにも関わらず、どの景色もどの景色も懐かしさの琴線へ触れてくる。
そういうわけで、私は額縁に収められたイギリスの田舎町を私の鄙びた故郷を想い出すときと同じ情感で眺めていた。
(思うに、風景画とは観る者をして郷愁への帰納。)
地元を離れて12年。もう二度と帰ることのない私のふるさと。
回顧すべき故郷を、郷愁の"あて"を失くした私を宥めるかのように並ぶ額縁。
いっそのこと部屋に飾ろうか?
けれども油絵を眺めるには狭すぎる私の六畳間。
節くれだった枝や枯れ葉の生き生きした質感は、それなりの距離を取って鑑賞しないと決して姿を現さないのだ。
この国の窮屈さは、油絵を飾るにはどうにも向かない。
なかでも印象的だった風景画がある。
その画家の作品からはどことなく太陽信仰の気配が漂っていて、それが真実や理想や「一なるもの」に飢えた私の心を掴んで離さなかった。
「この世の景色は太陽によって照らされ浮かび上がるのではない、太陽の光こそが遍く事物を構成するのだ」と云わんばかりに。
私はそこに画家の一貫したテーマ性を感ずる。
漆黒の回廊がいざなう、その歩みを進める。
(木漏れ日は太陽の嫡子、光の卵を孕む)
(花々は朝日をただ乞い希うのみ、光のほうへ弱き茎を伸ばす)
そして巡り合った1枚の絵画。
北欧の山岳地帯。立ち籠める冷気のなかを黙して昇る朝日が、その眩い姿を澄んだ湖面の真下に結ぶ。
伸びゆく光の直線。光のモーゼ。十字架さながら厳かな誓い。
日光の加減によって現れる景色の微表情を捉えることこそ風景画のスタンダードであろうけど、むしろその画家の描く景色は、世界を体現する風物ひとつひとつが太陽の自己表現なのであった。
(この画家にとっては太陽の昇る場所すべてが故郷であろうか)
最後の絵は穏やかな雪景色。
日光も遠のく、冬の曇り空。水気を帯びた雪が地面を覆い隠し、でこぼこと連なる小さな丘がくねった道を浮かび上がらせる。その脇に雪を被った針葉樹が寡黙な案内人さながら規則正しく並び、私を奥へ奥へと誘ってゆく。
絵画の奥へ、心象の奥へ。
何だか故郷の雪質と似ている。水っぽい雪を踏みしめる感触を思い出す。
ぴちゃぴちゃ、ぽしゃぽしゃ。
(陰鬱な空、ひとりの帰り道)
奥へ奥へ歩みを進める。記憶の淵へ、私のふるさとへ。
ひどく足元が悪い。
・・今年1月。寒さ極まる北陸地方を、つまりは私の故郷を大きな地震が襲った。慌ただしく流れるニュース速報では震度5を示しており、築30年以上経つ実家も何らかの被害を受けたであろうと窺い知れた。けれどもそこに住む親族とは完全に縁を切っている。12年も前に、何の未練なく関係を絶っている。友人もいない。帰りたくも関わりたくもない。だから実家の様子など知る術も無ければ、知ったところで直接的には手の差し伸べようもない。
あの雪景色へは二度と戻らない。どんなに道を辿ろうとも。
・・再び絵の前に立ち返る。
空暗く、導(しるべ)なし。
私の故郷は、もはや私にとっての光にも導きにもならない。
けれどそれで良いと思う。
太陽は冬の厚い雲に隠れたきり。
けれど私には進む力があるから。
雪景色に刻むは確かな轍。
それで良いと思う。