常世のヒビキ
noteを読んで下さった方から素敵な海の写真を頂いた。
やさしく吹いているのだろう風が海面を撫で、幾つもの波を型取っている。波打ち際に揺蕩う泡のひと粒ひと粒からは、ぱちぱちと音が聴こえてきそうだ。
母なる海が吐き出す、生命の果実。
死とはつねに不死から生まれる。
さらあば常世の国よ、何処に。
あらゆる波紋のはじまるところ、
それはさいしょの風吹くところ。
そこは粒子のしたたるところ、
ゆめとうつつの合わさるところ。
そこがたぶんわたしのふるさと、
行方知れずやわたしのふるさと。
水平線の向こう側には何も見えない。
謎から謎へと谺(こだま)して、天籟(てんらい)のごとく世を吹き渡る。
常世の国よ、何処に。
秋晴れの山空を見上げると、鳥が飛んでいる。木が伸びている。俯けば花が咲いている。
海とは違い、此処ではすべてがはじめから湧出している。
けれども視界いちめんに広がるこの景色がいつも寂寥として、孤独を湛えているのは何故だろう。得も言われぬ切なさが何故こうも胸に迫るのだろう。
このかなしみは、どこから来るのだろう。
思う。此の世のすべては「仮の現れ」なのだと。
満開に広がる青空の下、花は花のように咲き、鳥は鳥のように飛び去っていく。
花はみずからを憧れて咲く。鳥がみずからを追うて飛ぶ。
生に目覚めるや否や、慌ただしき万物流転に組み込まれ、現象としての「仮初めの自分」を演じさせられ、何が何だか分らぬままに、空の彼方へ飛び去りゆくのだ。
生きるとはこれだけのこと。
にも関わらず、千秋古来、皆それぞれの「ほんとう」の背を追いかけてその周りを延々回り続けているのだとしたら。
そのかなしき未練こそ、輪廻と呼ぶのなら。
(空中で争うは二対の猛禽、彼らは則ちじぶんの影と戦っている。)
私とてわたしを夢見て、書物を読み漁っては言葉を綴り、かと思えば成れもしないものに成ろうとして、その度に逃げていく"わたし"の影を感じて生きてきたではないか。
(その背に追いついた試しはまるで無い。)
私達はおそらく、「ほんとう」の比喩でしかない。けれど「ほんとう」が何を意味するのかも分からない。
実(まこと)の自分を分からないまま生き、分からないまま死んでゆく。
万物が惑い紛い迷うなか、空だけがいつもそこに在る。
「無常」とは「永久に辿り着けない」ということ。
さて私は今、友人と顔を合わせ、とりとめのない話をしている。
ここに表情、という波紋がある。
目の前の貴方がふと微笑んだとき、私も思わず笑う。貴方の顔が緊張していると、私の顔もついついこわばる。
私たち人間は、おのおのの顔に主体性を持ちながら、同時に波紋の伝い合う一如の水面(みなも)でもある。
互いが互いを響き合う。顔は鏡、とはよく言ったもので。
そういえば、山の景色を一望した時の切なさは、歴史を学んだ時の得も言われぬ感傷によく似ていた。
先人の誰しも、ほんとうの幸福には触れ得なかった。
ただ、青空だけが変わらず青い。
誰しも、ほんとうの自分には手が届かなかった。
ただ、青空だけが変わらず青い。
血みどろの戦争が何十年と繰り返され大地がいかに荒廃しようとも、野に咲くバラの色とりどりの美しさは変わらない。
私が描いた夢がいくら破れようとも、私は図々しくも生き永らえて、したたかな生活は尚続く。
「ほんとう」は永久に手に入らない。ただふるさとを持たぬ波の如き響きだけが在り続ける。
これまでも、これからも。
あらゆる生命はヒビキなのだ。ヒビキの生まれる場所を手探るように、時に人は唄い、時に物語に夢を見て、そして恋に溺れていく。
生きるとは存在とは、詩そのもののよう。
波を起こした風は疾うに止み、泡のゆくえは消え失せた。
それでも。
言葉を選びながら私を見つめる貴方の気持ちに耳を澄ませる。
目の前の微笑みを信じる。
私も笑う。
その度に、愚かな期待は永遠へと飛躍する。
常世の国から吹き渡るは波。