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「変わらないこと」に固執するのを止めるために

前の記事でコで始まるヴァイラス様による狂騒を外から見て、日本について述べたけど、もはや私のいる国も対岸の火事ではなくなって、みんな狂騒してる。

それでやっぱり日本はちょっと様相が違うなと感じた。

基本的に私が今いる国では、国に対する信頼がない。だから、結局デマがながれようが流れなかろうが、患者数が少ないうちからすでに買い占めが始まっていた。食料品と日用品を買い占める人が多く出てきた。幸いまだパニックとまでは行ってないが、スーパーマーケットの棚はがらんとしている。

現状に対する人々の悲観っぷりと行ったらすごい。もう国は終わりだ、みたいな様相を出す。マスクマスクマスク、マスクはどこだ!マスクを出せぇ!(千と千尋のモノマネで)

それに対して日本はどうだろう。

なんだか、デマに踊らされたりしながらも、医療に対する信頼感が高いし、人々は少し気をつけながらも普段通り、混乱しないよう過ごしているように見える。まあ買い占めは起こったりしているが、なんだかんだ落ち着いているように見える。

うちのおかんなんて、「まあ大変だけどねえ。いつも通りよお。」と、いつも通りテレビショッピングで購入したい怪しげなダイエットマシーンについて相談してきたし、「Amazonを騙る日本語が怪しいメールについていたリンクをクリックしてしまったんだけどどうしたらいいの?」とも相談してきた。ああ、親、そろそろオレオレ詐欺とかに気をつけないといけない歳なのだろうか。

まあそんなこんなで、状況を比べながら思っていたのは「変化に対する意識」の違いだ。変化に対する意識、これは自分の最近の課題感でもある。

今私が住んでいる国は「物事がすぐ変わること」に慣れている。お店もすぐに潰れてすぐに新しいものができる。法律もコロコロ変わる。新興国だからだ。

だから、今政府が発表している数字も、WHOの発表もすぐにコロコロ変わるのだと心得て、自分たちで早めに備えをする。政府に対する信頼も医療に対する診療も薄いので、自己防衛をする。テレワークや学校閉鎖、自分たちのライフスタイルをさっと変えてしまうことにも、自己防衛のためなら仕方ないという姿勢である。

対して日本は、何かを大きく変えることに恐れを抱いているように思う。

個人レベルでもそうだ。どこの層が恐れているかは知らないが、とにかくいつもと違うことが徹底的に嫌だという人が一定いる。

物事がすぐに変わるから、リスクを取らないことがリスクであるという考え方をするこの国では、日本の終身雇用を見ては「潰れるかもわからないのに何十年も同じ会社で同じ仕事をするなんて」と驚く人にも会ったことがある。

そしてその性質は自分にもガッチリと組み込まれていて、そう、アラサーを迎えて私は変化をすることが非常に億劫になってきた。転職しようか、といろいろ話を聞いてみるが、どうも「よしやるぞ」という気持ちになれない。

だって怖いじゃん。もしかしたらうまくいかないかもしれないじゃん。今結構無難にうまく行っているから、あんまりドラマティックに変化をしたくはない。安牌取りに行きたい。努力なしで生活がよくなればそれが一番いい。

10代20代前半の時の自分と、持っているものはそれほど変わっていないはずなのに、挫折することがどんどん怖くなっているのだろうか。失くすものなんてほとんどないのに、プライドだけが大きくなってしまっているのだろうか。

この国にきた時は未知のものに震えを感じながら、でもどこかでワクワクも感じていた。血がブワッと流れるような感覚を感じていた。

今はもう重たい砂に足を埋めてしまったように動けない。たくさんものを食べすぎて動きが鈍くなったカオナシみたいに。

吐き出さなければならないものがあるのかもしれない。リスクに対応するために。これからも自由であるために、変化をし続けるために。

今の狂騒がいつ終わるのかとんと見当もつかないし、何が正解かなんて誰にもわからないから、試行錯誤していくしかない。この後何が起こるかも、予測はできてもピタリと予言して当てることはできない。

自分の人生だってずっとずっと狂騒だ。終わりがあるかけっこではないのだ。とにかく食べ過ぎたものを吐き出して、砂から足を出して、鈍くても一歩踏み出したい。

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