だけど私はモノをいっぱい持ったまま死んでもいいと思ってる
「僕、モノを減らしてミニマリストになりたいんだよね」
と、彼氏がお昼を食べながら言った。
「そうなんだ、なんで?」と何食わぬ顔で答えていたけれど、内心では
「また…まただ…彼氏がミニマリストになっていく…」
と、元彼のことを思い出していた。元彼もなぜかある日ミニマリストに目覚めて、モノを断捨離していた。スッキリして綺麗になった部屋で、ヨガなんかやってた。パネエ。毎日ケチャップ舐めてる私とは違うぜ。ヘルシーで洗礼された生活だ。
この方向性の違いは別れにつながってしまった。つまり、ミニマリストにとって私はヘルシーじゃなかった。夕食といえばベーコン焼いてソーセージ焼いてケチャップ舐め回している女は、健やかで穏やかなミニマリストの生活とは合わなかったらしい。いや、ちょっと盛ったかもしれないけど、まあ別れはいつも方向性の違いからだ。
「なんだかモノがあることでストレスが多い気がして。今度引っ越すからさあ、そのためにもちょっとモノを捨てようかなって。」
あー、そう、そうなんだ、と適当に相槌打ちながら味噌ラーメンを思いっきりすすった。
ミニマリストを否定はしない。むしろ、引越しの多い環境で暮らしていることもあり、私もモノを少なく保っている方だと思う。でも、本当はいつも何かを捨てたいとは思っていないし、モノをたくさん持っている生活が好きだ。
だから、今日彼氏に「今Amazonで買おうとしているその鍋さあ…本当に必要?100%必要?ないと生きていけないの?」と言われた時ムキになって「1000%必要、鍋パするんやワシは」と言い張ってしまった。鍋パする友達なんていないのに、人は(主語大きくしてごめん、私は)愚かである。
なぜ私はモノが多い生活を擁護しているのか、仕事をしながらぼんやり考えた結果、一つの結論に至った。
モノの多い部屋は、なんだか安定を意味するようで、好きなのだ。
もちろんゴミ屋敷まで行くと「捨てろよ」の一言しか出ないけど、ほら、実家の戸棚っていつもモノに溢れてたじゃん。そんなことない?それはきっとご家族が綺麗好きできちんとしていたのだと思う。
うちは、使いかけの化粧品はもう骨董かなってレベルで置かれていたし、本だって一冊たりとも捨てずに本棚にびっちり並べて、本棚のスペースがなくなったら本棚を追加してた。そのうちそのスペースもなくなって、子どもたちが一人暮らしになって家を出た瞬間、子供部屋は無残にも解体されて本が敷き詰められていた。あと、祖父が亡くなって祖父宅から引き取ってきた人形とかも敷き詰められていた。
自分が大人になってから気づいたのだけど、モノを長いこと置いておけるっていうのはすなわち安定だ。自分の家、故郷を持ち、そこに永く住む決意をした人たちだけができる行いなんだ。
上京してからしばらく東京で働いたりしたけど、どうにも東京にずっと住める気がせずに、お気に入りの家も見つからないまま、何度も引越しをした。そのうち嫌になって、終の住処を探しに海外に来てしまった。
それでも、此処じゃない感がずっとあるから、いつか此処を離れる感覚があるから、モノが持てない。
私は、モノを無駄にたくさん持ってしまうことに憧れている。戸棚にいつ買ったかよくわかんない化粧水の瓶が並んで、17歳の頃に読んで感銘を受けた本がいつまでもベッド脇の本棚にあって、衝動買いしてしまったカバンはクローゼットの奥に3つくらいしまってあって、アクセサリーボックスを開けると、どこぞの旅行先でつい買ってしまったやたら派手なジュエリーがたくさん入っていて、古びたアルバム(このデジタルな時代にはもう作らないかもね)や写真がボックスに無造作に入っててなんならゴキブリもそこで干からびちゃってるようなお家で死にたい(我が家です)。
タイトルは「モノをいっぱい持ったまま死んでもいい」とやけに偉そうにつけてしまったけど、私はモノをいっぱい持って死んで遺品整理の時に子供や孫に「うわ〜!懐かし〜!」「これいつの〜!?」って言わせてしまう生涯を切望しながら、未だスーツケース95L分の荷物だけで異国をさまよっている。
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