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幼少期の思い出と服に纏わる私のエピソード。。。🥺💘


私がまだ子供の頃、それは丁度昭和30年代後半から40年代にかけてのことだった。丁度戦後の高度成長期真っ只!

当時我が家は色々な商売を営み、沢山の従業員がいて、私は母の作った料理よりもまかないのオバチャン(お手伝いのオバチャン)の料理で育った‼️

父は余り働く人ではなく母が全てを切り盛りし夜も遅かったので朝はお手伝いのオバチャンが起こしてくれて朝食を作ってくれた!

わたしが物心つく頃からそのオバチャンはいて、私は実の母よりもそのオバチャンを実母のように慕い懐いた!

学校から帰ると母ではなくそのオバチャンにその日学校で起こった出来事を話した‼️

だから、同じ家にいながら父や母や兄妹で過ごすより、一人か、はたまたオバチャンが仕事を終えるのを待って一緒にお風呂に入るのを唯一の楽しみにしていた‼️

兄と姉とは少し歳が離れていたので私は全く二人には相手にされなかったがオバチャンがいてくれたので寂しさは全く感じなかった。

当時、我が家は事業の1つに旅館業も営んでいたのでそのオバチャンは旅館のお客様のお膳も拵えていて、その業務が終わるのを待って一緒にお風呂に入った‼️

当時の我が家の風呂♨️は薪風呂で旅館をしていたので風呂場は広く、なぜかライオンの口からお湯が出てきた!
不思議と古い記憶だけは鮮明に覚えているものだ‼️

しかし、そのオバチャンはわたしが中学3年までうちに勤めていたが既に70を幾つか越えていたので退職した‼️

退職後も近くのアパートで独り暮らしをしていたので私は高校を卒業するまでそのオバチャンのアパートに毎晩のように遊びに行った!

その後私は大学進学のために上京したのでオバチャンとはそれきりになってしまった!

結局オバチャンは私が上京後、中風になり身寄りがなかったので特別擁護老人ホームに入った!

私はほんの数回しかお見舞いに行けず、あんなにもお世話になり可愛がってくれたのに親不孝ではないが最後粗末にしてしまい、申し訳なく今でも思い出すと心が痛い‼️

それが私の幼少期の思い出‼️

母は当時仕事が忙しくてろくに私たち兄妹に対してかまってやれなかったので物質な物で私たち兄弟の心を埋め合わそうとした‼️

父はと言えば、その時の記憶を辿るととてもお洒落な人でいつもパリッとしたstylebookのような人だった‼️

背広も地元のテーラーではなく、わざわざ遠くの町のお気に入りのテーラーがあって月1か数ヵ月に一度車に沢山の生地を積んで我が家にやってきた。

父は心待ちにしていたのか楽しそうに生地を選びオーダーしていた!

その嬉しそうな父の顔が未だに記憶に残っている。とにかくお洒落な、いや、ダンディな人だった。

要はただのええ格好しぃだったのです‼️

長身で男前。昔の俳優で言ったら池部良に似ていた!(池部良を知っている人は今ではいないかも⁉️昔の往年のスターです🌟)

在りし日の父と母

その上、車が好きであの昭和30年代後半から私が結婚するまで父はずっと外車、アメ車に乗っていた‼️

今でこそ、窓は自動が当たり前だが、その当時国産車はまだ手でハンドルを回しながら開けていたように思う。

それなのに父の車はなぜか自動でそれがずーっと当たり前だと思っていた!

母も中々お洒落な人で私が小学生だった頃は田舎だったのに、私の服はいつも大概仕立てでそれもそんじょ其処らの仕立屋じゃなく、隣町の有名なオートクチュール店。といっても田舎の高級店だから知れてるが、生地は舶来だった。

私は末っ子だったので大層父にも母にも可愛がられ、色々作って着せて貰った!
今でも記憶にあるのは小4~5年くらいの時に着ていたブラウスが当時では珍しいポリエステル?のようなよく分からない化繊ではあるが今で言うグレージュのような地にペールピンク(くすんだピンク)の水玉のブラウスなのだが、襟と袖口にフリルの付いたパフスリーブ。それにピンクの四角いカフスボタンが付いていたのだ‼️

回りを見てもそんな服を着ているものなど誰もいない!

回りにはある意味異様に写っていたかも知れない‼️

もう1つ記憶に残っている服はグレー地にくすんだパープルの変わりチェックのジャンパースカート。よくみると脇の柄はきっちりと合わさっていて今考えると相当技術も高く、おまけに値段も高かったことだろう?🤔🙄

子供が着るような服ではなかったように思う!

でも、その服は私の一番のお気に入りの服だった!大好きだった🍀😌🍀

私の服好きはその時に培われたのかもしれない‼️

それから当時私はピアノや生け花、様々なものを習わせられたがどれも皆続かず唯一続いたのが8歳から習った生け花とピアノ。

生け花は結婚するまで習った!

ピアノは上手ではなかったけど好きだった‼️

今考えると幼少期はかなり恵まれて育ったのだろうと思う!

あれから何年経ったのだろう…

私も孫ができる歳になったがやはり服好きで部屋には特注の5m近いオーダークローゼットがデンとある!

全て鏡張りなので家相的に悪いと言われて一部ロールカーテンを付けて目隠している!高さは天井に届く程あり、中は私使用にカスタマイズされている!
スライド式になっている靴収納棚
大工さんに特注したもの。夏。冬で履く靴を移動。棚の上にはブーツ👢を置いている
私自身の部屋の中にシューケースがあるのは少し異様ですが意外と便利なんです!
服を選んだ後靴をすぐ選べるので…

この服にはこの靴。そしてバッグという風に服に合わせてバッグと靴を選ぶので靴も100足あり、バッグもかつて60個以上持っていた!

今は斜陽の一途で昔程バッグ👜は持っていないというより重いバッグが苦手になって持てなくなった!

いい高級品バッグは何故か重い。CHANEL、HERMES、GUCCI、CELINE、Dior。一通りのバッグを持った!

stylebook編集用のテスト画像


結局手は2本しかないのだからそうそう一杯あっても持ちきれない‼️

服もありすぎて1つのクローゼットでは入りきれないから何ヵ所にも分散して置いている‼️

かつての古い古いGUCCIのバッグたち
バンブーシリーズ👜
服でも何でも色違いで買うのが好きだった!結局色違いを買ってもどちらか一方しか持たないし着ない😢

その服やカバン👜、靴を見る度に思うことは随分浪費したものだと思う‼️

今から30年以上前にHERMESに凝った時、HERMESの年二回のファッションショー(Rihga Royal Hotel Osakaとヒルトン大阪で交互に行われた)に出掛けた!

当時は関西でもほんの100名足らずの顧客が招待されて、ショーが始まる前に6~8名座れる円卓に軽い軽食というかお茶☕やクッキーが振る舞われ、その後ショーが開かれ、その後顧客の担当者がそれぞれの顧客の質問や商品の説明や購入、予約を承った‼️

善き時代だった‼️‼️

余談。

HERMESにおいては
かつてHERMESの公式サイトがない時にHERMESサイトを運営していてパソコン雑誌でも取り上げて頂き、それでヴォーグジャパンの雑誌の見開きにも出る予定がドタキャン。その時ヴォーグに送ったHERMESバッグ👜の写真を探したのですが出てこないので割愛。
当時はHERMESバッグを20個くらい持っていました‼️

その後空前のHERMESブームが始まり、ショーは100名くらいから2部構成しても間に合わないくらいに人(各デパートの外商客等々)が増えて円卓もお茶☕も無くなり、無味乾燥とした折り畳み椅子に変わった‼️

今は知らない。興味もなく法外に上がったバッグを買うだけの余裕はないから。。。

今でも服は好き!
だから、人に薦められてInstagramを初めて早まる5年が過ぎ、それまで私が撮り貯めた写真が8000枚を越えた!

私も人生の終活に入る年齢に達し、最後の私の夢は自身の備忘録としてのstylebookを作りたいと思っている!

今から20数年前Webデザイナーをしていたので写真編集は得意かも‼️これはつい先日私のInstagramで載せたphoto

やっとその作業に取り掛かり始めたのだが中々8000枚の中から自分のお気に入りのを選ぶのは難しい‼️

でも楽しい作業。

stylebook用の画像

本当に出来るかどうかは分からないけどチャレンジ、遣ってみる価値はあるかもしれない。。。🥺💘

⬆️Please show my Instagram💓

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