見出し画像

月と陽のあいだに 154

流転の章

カシャン(1)

 カシャン侯爵領へ通じる街道は、ユイルハイの城門を出ると南へ向かい、湖に流れ込むハリ川を渡ったところで南西へ向きを変える。
 月蛾宮を出発して二日目、なだらかな丘と平原が続く皇帝領を走り抜けると、馬車はカシャン領に入った。暗紫山脈が近づき、窓の外に広がる田の景色が畑や牧場に変わっていった。
 カシャン領はルーン川とハリ川に挟まれた土地で、月蛾国屈指の農産物の供給地だ。かつて暗紫山麓の高原は、水利に恵まれず耕作に適さないと言われていた。カシャン一族は、その大地にルーン川とハリ川から水を引いて用水路を作り、長い年月をかけて豊かな農地と牧場を作り上げた。
 ユイルハイに近い北部では米・小麦と野菜が栽培されているが、南部の暗紫山麓ではブドウ栽培が盛んだ。カシャン産の葡萄酒は月蛾国きっての高級品で、輝陽国への重要な輸出品でもある。秋を迎えた畑では、色とりどりの衣を着た村人たちが、たわわに実ったブドウを収穫していた。

 カシャン侯爵の館は、暗紫山脈に近いアラハトの町の郊外にあった。広大な敷地には石造りの館を中心に、兵舎や厩舎、使用人の住まいが建てられ、館を囲む庭園の周りには、農地や牧場が広がっていた。敷地の一角には、米や小麦などの食料や毛皮や羊毛を貯える倉庫が並び、カシャン領の豊かさを示していた。

 馬車が止まり、エレヤ夫人に続いて降り立った白玲を、居並ぶ人々が出迎えた。
「殿下をお迎えできて光栄です。ここを我が家と思ってお過ごしください」
 笑顔で話しかけた壮年の貴族が、エレヤ夫人の息子のカシャン侯爵だった。侯爵の隣には小柄な侯爵夫人が微笑み、次男のサラムと二人の姫が挨拶した。嫡男のエイランは禁軍の軍医で、今はユイルハイの部隊にいるという。
「三か月の間、エレヤ夫人のお教えを受けることになりました。どうぞよろしくお願いいたします」
 白玲も膝を折って丁寧に挨拶した。
「母の指導はとても厳しいですから覚悟をお決めください。三か月もカシャンにいらっしゃれば、殿下は我らの身内になられたようなもの。これからは、我が一族が殿下をお守りいたしましょう」
 エレヤ夫人に導かれて、玄関の階段をあがる白玲の後ろからネイサンが続く。カシャンの姫を母にもつネイサンは、皇帝の意を受けて白玲の後見役になっていた。
「タミア卿から読書会のことをお聞きになった陛下が、私を指名されたのだ。子育ての経験などないから辞退したのだが、陛下のご意向を拒むことはできないだろう」
 実弟のネイサンを後見役に立て、皇家を支える大貴族カシャン侯爵家と繋がりを作ることで、皇帝は白玲を守るという意志を明確にしたのだった。

 豪壮なカシャン邸は、砦を思わせるすっきりとした造りだった。だが床に敷かれた絨毯や家具調度品、壁に飾られた武具はどれも素晴らしく、カシャン家の財力と審美眼を見せつけていた。
 館の大広間には、歴代の当主とその家族の肖像画が並んでいる。それらは、北国の厳しい暮らしに耐えて豊かな領地を作り上げた人々の、誇りと威厳に満ちていた。それと同時に、世代を追うにしたがって陽族の面影が薄くなり、色白で丈高く美しい月族へと変わっていく様がはっきりと見て取れた。黒髪で背の低い自分は先祖返りのようなものなのだと、白玲は思った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?